2023年3月5日の説教要旨

2023年3月5日受難節第二主日礼拝 説教「神からの神」 ヨハネの福音書9章13-34節

受難節の二週目です。主イエスに見つめられている私たちが、主イエスを見つめる、そんな歩みを今週も続けてまいりましょう。

【イエスとはだれか】

主イエスは生まれつき目の見えなかった人をあわれまれました。だから立ちどまって、彼をじっと見つめ、そして、いやしました。ところが「イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。」(14)だったことから、主イエスについて二つの異なる意見が出てきました。

第一の意見は「十誡には、安息日にはいかなる仕事もしてはならないと書いてある。それなのに安息日に人をいやした主イエスは、神さまの命令に逆らう者である」だから「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」(16a)というものです。

第二の意見は、このいやされた人の意見。彼は「あの方は預言者です」(17c)と考えたのでした。「預言者」とは、神のみことばを授けられ、それを人びとに伝えるために神によって遣わされた人。つまり神のもとから来た人です。このいやされた人は、「イエスは神のもとから来たお方だ」と語ったのでした。

【神の心、神の体温】

第一の意見は、パッと見にはまともなように思えます。たしかに聖書には「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と書いてあるからです。けれども私たちはウナギが大好きでしょう。先週出たばかりの私の説教集『神さまの宝もの』の帯にはこうあります。「禁忌があるのは人を縛るためじゃない。新しいいのちに向かって解き放つため。フクロウは食べないけれど、ウナ丼は大好き。イワダヌキに縁はないが、豚肩ロースは食べちゃだめですか?ツッコミどころ満載の食物規定の箇所を、現代の聖書料理人を自認するパスター・オオズ、さぁ、どう料理する!?」と。これは出版社がつけた帯ですが、ウナギを食べないことが大事なことではないのです。そうではなくて、律法は私たちをいのちに向かって解き放つためにある、そこに神さまの心がある。そのことが大切なのです。自分の本ばかりで恐縮ですが、『聖化の再発見』には、「律法は代表例」だとあります。律法の一つ一つをどれだけ厳密に守るか、が重要なのではありません。私たちが神さまの心を知って、その心を生きているか、がたいせつなのです。

安息日のいやしは、表面的には律法を破っているように見えても、実際は神さまの心そのものです。まさに主イエスは神さまから遣わされ、神さまの心を生きたお方なのです。

【神からの神】

私は神学校で教会史を教えています。年間14回の授業を行いますが、その始めの3回はニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)の成立に力を入れて語ります。なぜならこの信条にキリスト教の核心があるからです。いつの時代もキリスト教の異端は「イエスはだれか」をめぐって起こります。「イエスだれか」をそれ以上ない明確さをもって表現したのがこの信条なのです。全文を掲げます。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条

わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。
また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます アーメン

 「主は神よりの神」とあります。主イエスは神なのです。この目をいやされた人は主イエスを「預言者」だと言いました。神から遣わされたお方だと。けれどもこれを突き詰めて、「主イエスは神だ」と宣言したのがこの信条。だからとても大切にされているのです。多くの教会が礼拝の中でこの信条を告白する理由はそこにあります

【十字架に架けられた神】

「主イエスとはだれか」という問いの答は、「主イエスは神」。そう告白するとき、私たちは、もうひとつのとんでもない告白を迫られることになります。すなわち「十字架に架けられたのはだれか」という問いに対して「十字架に架けられたのは神である主イエスだ」と答えることになるからです。これは、私たちから一切の言葉を奪うような事実です。私のために、私をいのちに解き放つために、神が十字架に架けられた、と言うのですから。

この大きすぎる神さまの心を、私たちは無理に説明する必要はありません。言葉もなく、差し出されているいのちを受け取るだけでよいのです。それが神さまの心だからです。いま、言葉もなく、聖餐に与ります。主イエスの流された血、砕かれたお体に。

 

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