2023年7月2日 第一主日礼拝 説教「足を洗う神」 ヨハネの福音書13章1-11節 |
今日の聖書箇所から17章までは、最後の晩餐の記事。受難週の木曜日のできごとです。こうして最後の数時間を弟子たちと過ごした後、主イエスは捕らえられます。13章から17章を新約聖書の至聖所(ホーリー・オブ・ホーリー)と呼ぶ人もいます。主イエスの心の奥からあふれ出る愛の言葉に聴き入りましょう。
【心とたましいに刻むことば】
「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(1)。 主イエスの心の至聖所にあったものはなにか。それは「世にいる自分の者たち」への愛。これは弟子たちのことですが、私たちのことでもあります。私たちはまさに「世にいるイエスの者たち」だからです。私たちは主イエスの宝もの。玉ねぎの皮をむくように主イエスの心をむくと、そこには私たちへの愛があるのです。7月に教区の賛美集会があります。信愛の方がたが3曲用意してくださっていますが、うち一曲は私が作詞して、信愛の方が作曲してくださった「神さまの宝物」という賛美です。そこで繰り返されるのが『心とたましいに刻むことば、それは 愛のことば。 神の愛のことば』です。私たちも主イエスの愛を胸に刻みたいと思います。いえ、すでに刻まれています。だからこうして礼拝に集っているのです。
【足を洗う神】
「イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。」(4-5) 足を洗うのは、奴隷の仕事。ペテロがあわてて止めようとしたのも無理はありません。神に、自分の汚(よご)れた足を洗わせるなど、とんでもないことだからです。けれども私たちの汚れは、神であるイエスにしか洗うことができない汚れ。私たちを神から遠ざけ、たがいから遠ざけ、自分をも嫌いにさせる汚れを主イエスは放っておくことがおできになりません。そのための受肉と十字架でした。「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。」(3)とあるとおり。
【ユダの足も】
足を洗っていただいた者たちの中に、ユダもいたことを思います。「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」(2)主イエスはこのことを、ご存じだったにもかかわらず。主は「こいつめ、こいつめ」と思いながらユダの足を洗ったのではないはずです。ユダの足をいつくしむように、ていねいに洗ってくださったでしょう。ユダはその主イエスの手のぬくもりを感じていたはずです。その愛を。それなのにユダはイエスに背を向け続けてしまいました。それは主イエスにとってなんとも大きな痛みでした。
【あなたがたはきよい】
先週は名古屋の東海聖化大会で語りました。あらためて感じたことは、自分がきよめられているのかどうか、で悩んでいる方がたが多い、ということ。主イエスはレプタ二枚を献げたやもめを喜ばれました。我を忘れて神を愛したやもめの自由な心を喜ばれたのでした。体験はさまざまです。はっきりしたきよめの体験がある人もいれば、そうでない人もいます。けれども、神さまはそれぞれに、オーダーメイドの導き方をしてくださって、神と人への自由な愛を解き放ってくださるのです。神と人へ精一杯の愛の前傾姿勢をとらせてくださるのです。
聖会の後、YouTubeライブで視聴した友人から連絡がきました。「私は、かなり前のめりに歩けるはずなのに、イエスさまや友の助けを拒むあまりに、軽くしか前傾姿勢を取れない」と。そんな私たちの足を主イエスは洗ってくださいます。すでにキリスト者とされた私たちは全身を洗っていただく必要はありません。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。」(10b)との記事には、洗礼がイメージされているでしょう。すでにキリスト者、キリストのものとされ、キリストのいのちを生きる私たち。そんな私たちは日々主イエスに洗っていただきながら、仲間とともに歩みます。さらに愛を増し加えられながら、さらに癒されながら。私たちの恐れも、罪も、傷や痛みも、主に差し出して、今、聖餐に与ります。