新約聖書の至聖所とも呼ばれるヨハネ13章から17章。今日もここから主イエスの心の言葉、愛の言葉を聴かせていただきます。
【たがいに足を】
弟子たちの足を洗ってくださった主イエス。上着を脱いでしもべとなって。「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き」(12a)ました。上着をまとって、権威ある主として、語ったのです。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(12b-14)と。主イエスの権威は、愛の権威。主イエスが「互いに足を洗い合わなければなりません。」とおっしゃなら、それは「がんばって足を洗い合いなさい。そうしなければいけない」と強制しているのではありません。「わたし(主イエス)がそうさせてあげる。このわたしが、あなたがたが足を洗い合うことができるようにさせてあげる」と励ましているのです。
なにも問題のないときに、たがいにあいさつをしたり、親切にするのでしたら、私たちも抵抗がないでしょう。いつもそうしています。けれども、たがいの足が汚れているときに、つまり、わだかまりや、赦せない思いがあるときに、たがいに向き合い、愛をもって相手を受け入れ、赦し、覆い、あるいは愛をもって自分の痛みを伝えることは難しいことです。たがいの頑なさがあります。たがいの恐れがあります。そんなとき、私たちは、たがいの関係を健やかにすること、たがいの足を洗い合うことにしり込みしてしまうのです。
【しもべは主人にまさらない】
そこに主イエスのみ声が響きます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。」(15-16)と。主イエスは模範。けれども、単なるお手本ではありません。「イエスがしていることを、がんばって真似しなさい」というのではないのです。主イエスは父から遣わされ、父との交わりのうちに、私たちの足を洗ってくださいました。私たちも、主イエスから遣わされ、主イエスとの交わりのうちに、たがいの足を洗い合うことができるのです。いつものように言葉を補って、言い替えてみましょう。「わたし(主イエス)は、父から遣わされ、父との愛の交わりのうちに、あなたがたの足を洗った。あなたがたも、同じようにすることができる。わたしがあなたがたを遣わし、わたしがあなたがたに愛を注ぐ。だからあなたがたは、足を洗い合うことができる。わたしがそうさせてあげる。遣わされた者は遣わした者にまさらない。あなたがたの頑なさや恐れは、わたしの愛にまさらない。『わたしと同じように生きよ』とわたしが言うのだから、あなたがたはそうできるのだ。わたしがそうさせてあげよう」と。
【かかとを上げる者】
けれどもそんな主イエスの愛は、苦しみなしに注がれるのではありません。「わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。」(18)とあります。直接にはユダのことでしょう。けれどもその背後には、私たちを愛から遠ざけようとする大きなが存在します。罪と死の力といってもよいでしょう。主イエスはこの力によって十字架に架けられました。けれども復活によって、この力を打ち砕かれたのでした。だから、愛し合う生き方は、今、私たちのものとなっているのです。
【わたしはある】
そうは言っても、とおっしゃるかもしれません。主イエスのように愛することはできていないです、と。たしかにそうです。しかしいのちの成長には時間がかかります。私たちの頑なさや恐れには、自分でもよくわからない傷や痛みといった原因があるのですから。
「 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」(19)もまた主イエスの愛の言葉。「わたしはある」は単なる「神はいる、神は存在する」という意味ではありません。「わたしはあるようにする」という意味も持つ言葉。神は、あるようにさせる神。神は私たちをご自分がそうあらせたいと思うようにさせる神。ですから、神は私たちを、「足を洗い合うことができるようにする神なのです。
ロシア正教などの正教会では、写真のように三本の指を合わせ、残りの二本の指を折って、十字を切ります。キリスト教会にとってももっとも大切なふたつのことの表現です。合わせた三本の指は三位一体を、折った二本はキリストがまったき人であり、同時にまったき人であることを表しています。私たちがたがいに愛し合うことができる理由は、ここにあります。私たちは三位一体の神の愛の交わりに招き入れられました。そこであふれるほどに愛を注がれています。そんな愛の中で、人となった神であるイエスによって癒され続けています。神が人となって、私たちの傷や痛みを、いわば内側からご自分のものとして、受け取って、癒してくださっているのです。だから私たちはたがいに愛し合うことができます。今よりもさらに。自分のがんばりとはちがう次元で。聖餐のうちにさらに主イエスのいのちを受け取ります。

