2023年7月23日 第四主日礼拝 説教「ひとりぼっちの神」 ヨハネの福音書13章31-38節 |
「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(38c)。新約聖書の至聖所で語られた、あまりにも心に痛い言葉。ひとりぼっちの神の心を今日も聴きます。
【なんという神だろう】
ユダが主イエスを裏切るために出て行ったとき、主は不思議なことを言いました。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」(31b-32)と。人の子とはイエスのこと。神が人となってくださった。子なる神が、私たちと同じ人に。そして、十字架に架けられることをご自分の栄光だと言ってくださる。私たちのために十字架に架けられることを。父もまたイエスの十字架をご自分の栄光だと言ってくださる。いったい…いったい…なんという神だろう!
【あなたがたは来ることができません】
けれども続いて、弟子たちをはっとさせる言葉が語られます。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(32d)と。また、ペテロにも「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。」(36d)と言うのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(37c)、と申し上げたペテロ。人間に可能な限りの熱心でも、主イエスについて行くことはできない、という厳しいお言葉が語られたのでした。このことは私たちは、みな、身に沁みて知っていること。熱心に主について行こうと願いながらもそうすることができなかった悔いがあります。そんなことはもう無理かもしれない、そんなあきらめに似た思いを味わうことも、しばしばです。
【しかし後には】
けれどももちろん、主イエスはあきらめません。たとえ私たちがあきらめたとしても。だからイエスは、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(36a)というのです。「後には」とは、十字架と復活、そしてペンテコステによって、聖霊により生きる者とされるとき。例によって言葉を補って言い換えるとこうなります。「わたしは明日には十字架に架けられる。自分を与える栄光のときだ。あなたがたが愛のいのちに生きることが、わたしの、そして父の栄光だからだ。無上の喜びだからだ。弟子たちよ、けれども、あなたがたは、今はわたしについて来るこができない。ペテロよ、あなたも、わたしについて来ることができない。どんなに熱心であっても。わたしはひとりぼっちで死んでいく。けれども、やはり、それは栄光のときなのだ。なぜなら、あなたがたは後にはついて来ることができるようになるからだ。わたしがそうさせてあげるからだ。いや、わたしたちが。父と子と聖霊の神が、あなたがたに、愛のいのちを満たすからだ。」と。
【愛のいのちに】
そう言われてもまだ、「私は主イエスについて行くことができていない。もうあきらめるしかないのでは」と言いたくなる私たちです。しかし、それは私たちの見方。主イエスはあなたをそんなふうにご覧になってはいないのです。主は、あなたの失望をそのままにしておかれない。そこに恵みの雨を注ぎ、みことばを注いでくださっている。あなたは主について行くことに、確実に成長しています。そうは思えなくても。
【私が私たちに】
先週は教区賛美セミナーの3回目。後藤真牧師が幸いなお証しをしてくださいました。その中で、ある勉強会で、救いとは「私が私たちになること」だと気づかされたことを話してくださいました。その勉強会には、私(大頭)もいたのですが、言われて思い出しました。神さまとの、そして人との関係が損なわれ、それでも、自分がなんとか、と苦しんでいた人びと。ペテロもそうでした。ユダもまた。けれども、主イエスがご自分を与えてくださることによって、そんな者たちが二重の「私たち」になりました。第一に、神の子とされ、主イエスを長兄とする私たちなりました。愛のいのちを注がれて、主イエスについて行く、いえ、主イエスと共に歩むのです。第二に、仲間たちと共に歩み私たちに。主イエスについて行く旅は、仲間と支え合い、励まし合い、赦し合い、覆い合う旅です。主が「ひとりぼっちの神」になってくださり、私たちをひとりぼっちから解き放ってくださったのでした。