2023年10月15日の説教要旨

2023年10月15日第三主日礼拝 説教「世に憎まれる神」 ヨハネの福音書15章18-25節

この朝も主イエスの語りかけを聴きます。私たちのために十字架に架かったイエス。そのイエスがどうしても弟子たちに、そして私たち教会の心に刻みたいと願った言葉と愛です。

【世に憎まれる私たち】

「世はあなたがたを憎むのです。」(19d)にはドキリとさせられます。私たちは人から好かれ、仲良く生きるクリスチャンでいたいと思うからです。これから洗礼を受けようとする人は、こういう言葉を聞くと、考え込んでしまうかもしれません。けれども、この「憎む」は「嫌う」という意味ではありません。確かに初期の教会は迫害を受け、多くのクリスチャンが命を落とすことになりました。日本の禁教の時代のキリシタンも。しかし、それは彼らが嫌われていたからではなく、そこにはもっと根源的な理由がありました。

【キリストのものである私たち】

その理由は「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(19a-c) です。つまり、私たちは世のものではなく、キリストのものとなっているのです。この世のものは、この世の生き方でこの世の目的を達成しようとします。ローマは軍事力と支配のさじ加減で世界を押さえつけようとします。ローマの繁栄と誇りの維持が目的です。ユダヤ人も、あるものは武力蜂起によって、あるものはローマにすり寄ることによって、ユダヤを解放、少なくとも現状を維持しようとします。ユダヤの誇りと自由が目的です。

ところがキリストのものたちは、まったく異なる生き方でまったく異なる目的を達成しようとします。それは、もちろんキリストの生き方、キリストの目的と同じです。

【キリストの生き方、キリストの目的】

キリストの生き方は、十字架に鮮やかです。こう言うと、「十字架は死に方では?」と思うかもしれません。しかし、主イエスはご自分を与え続けて生きました。ご自分を憎み、敵対す者のためにも。そんな生き方の頂点が十字架なのです。ですから、キリストの生き方は自分を与える生き方。そして、キリストの目的は、世界を回復することです。

ローマもユダヤも、神から離れてしまっています。力や脅し、利益による誘導といった生き方において。そんな生き方は、国際政治だけでなく、企業や地域、家庭や子どもたちにまで及んでいます。また目的とする繁栄や誇りや自由も、神の与えようとしているそれらから離れてしまっています。神と共に、隣人の共に愛に生きることが、神が与える繁栄・自由・誇り。それなのに、世はたがいを押しのけ合うことによって、自分の手でつかみ取ろうとするのです。

そんな世にとって、キリストの生き方と目的は、危険です。なぜなら、世のルールなら、奪われたら奪い返せばよい。痛めつけられたら、痛めつければよいのです。けれども、私たちはちがいます。私たちは、奪われたものを取り戻す以上のことを願います。奪った者たちが与えるようになることを。痛めつけた者たちが、自分が与えた痛みに痛むようになることを。これは確かに、世の生き方にとっては、我慢できないことにちがいありません。生き方そのもの、ルールそのものの変更を求めるからです。これまで誇りとしてきたこがアップサイドダウン(上下反転)することだからです。

【世から選ばれた私たち】

わたしたちが、キリストの生き方、キリストの目的を知り、喜び、そこにとどまるようになったことは不思議なことです。その理由は「わたしが世からあなたがたを選び出したのです。」(19c)にあります。私たちが選ばれているけれども、教会に来ていない人は選ばれていない、そんなことではありません。神はすべての人に、いのちを与えることを望んでおられます。それなのに、ちっとも特別ではない私たちがそのいのちに与ることができました。理由もなく。その不思議は、神が選び出したとしか言いようがないのです。だから私たちは選び出されたことを誇るのではありません。私たちをほうっておくことができなかった神を誇ります。

私たちには生命を奪われるような迫害はありません。けれども、キリストの生き方、キリストの目的は、世を不安にさせます。これでいいのか、と。不安は反感を、反感は憎しみを生み出すでしょう。その憎しみを受け止め、「だいじょうぶだ。心を開いて、神に抱かれよ」と私たちは語ります。キリストのものだから。聖餐に与ります。

目次