2024年1月7日新年礼拝 説教「捕らえられた神」 ヨハネの福音書18章12-27節 |
明けましておめでとうございます。元旦から北陸に地震が起こるという年明けになりました。けれどもやはり、このときも、どんな状況をも貫いている神さまの愛を覚えていることができるように、と思います。
【捕らえられた神】
捕らえられた神、この説教題は衝撃です。そもそも人が神を捕らえることができるのか、神を縛り上げて、無理やり連れていくことができるのか。もちろんできないはずです。なぜなら神は人が自由にできないお方だからです。それが神の定義だからです。ところが、私たちの神は、実際に捕らえられました。「平手でイエスを打った。」(22)ともあります。私たちの神は、捕らえられたり、打たれたりする神。ですから聖書を読むことは、神の定義を、定義しなおすことです。神とは、私たちのためには、捕らえられ、打たれ、十字架に架けられることをいとわないお方なのです。
【神の完全、私たちの不完全】
主イエスがまず、連れていかれたのは、アンナスのところ。ときの大祭司カヤパのしゅうとです。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(14)とあります。カヤパは、「主イエスを支持する人びとが反乱を起こしたら、ローマによってユダヤが滅ぼされてしまう。それより、主イエスを死へ追いやって反乱の芽を摘んだほうがよい」と言ったのでした。実際は主イエスはローマへの反乱を企てていたのではなく、世界が神に立ち帰り、破れた世界が回復するために来られました。ですから、カヤパの助言は的外れでした。けれども神さまは、そんな人の愚かさをも用いて、それを主イエスの死による世界の救いの預言となさいました。神さまのなさることは、完全な部品から完全な製品を作ることではありません。不完全な、たとえば欠けと弱さだらけの私たちの不完全さも、組み合わせ、生かして用いて、自在に、完全な結果を作り出すことができるお方。大胆に信頼しましょう。自分ではなく、神さまを。
【イエスとペテロ】
この個所には、イエスとペテロの様子が交互に描かれています。12-14節はアンナスの前のイエス、15-18節はイエスを否むペテロ、19-24節は再びアンナスの前のイエス、25-27節は再びイエスを否むペテロ。ヨハネの意図が、主イエスとペテロを対比することにあったのは明らかでしょう。
イエスは、脅しと暴力によって従わせようとするアンナスに屈しません。「わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。」(21b)と誤りを指摘し、「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。」(23b)と諭します。打たれても「正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」(23c)といさめます。アンナスどころではない権威が、主イエスにはあります。その権威に向き合うことができずに、腰がくだけるように、アンナスは主イエスをカヤパに送るのです。
一方ペテロは、三度イエスを知らないと言います。その相手は大祭司ではありません。門番をしていた召使いの女や下役といった権威からはほど遠い人びと、そんな人びとを恐れました。大祭司(アンナスは元大祭司)を圧倒した権威あるイエスと権威なき人びとを恐れたペテロの姿は、正反対です。
先週はイエスが「わたしである」とおっしゃった箇所を読みました。神さまは人間の思いの中に納まらないお方。私たちの想像をはるかに超えた祝福を与えるお方だと。ここでもイエスは、人間の目論見を超えて、すべての人を祝福する道を歩み続けます。すべての人を祝福し続ける存在として「ある」のです。けれどもペテロは「私ではない」と言い続けます。私は弟子ではない、私はイエスといっしょではない、と。それは祝福である主イエスとの関係を否定することでした。祝福から自分を切り離すことでした。「ある」イエスと「ない」ペテロ、その断絶をつなぐのは、もちろんイエスです。
私たちもまた、主イエスを裏切ってきました。愛する者たちを愛しきれず、覆いきれなかったことも胸を刺します。ヨハネは他の三つの福音書とは違って、ペテロの涙を記していません。泣くことさえもできない絶望の中にペテロは青ざめて立ち尽くしていました。胸が痛みます。
けれども、主イエスはペテロの裏切りを知っていましたから「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:31)とおっしゃっていました。けれども「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(13:1)ともあります。ペテロの裏切りは主イエスに知られており、ペテロの裏切りのためにも主イエスは十字架に架かってくださったのでした。もちろん私たちの青ざめる罪のためにも、痛みのためにも。この愛ゆえにペテロは、やがて立ち上がり歩き始めます。泣いて悔い改めたからではなく、主イエスのあわれみゆえに。私たちもまた。何度でも、何度でも、何度でも。