2024年2月4日 第一主日礼拝 説教「十字架に架けられた神」 ヨハネの福音書19章16b-24節 |
いよいよ十字架。十字架に現れた神さまの恵みの一端を今日も受け取らせていただきます。
【主ひとり】
他の福音書では、ゴルゴタへ向かう途中で、シモンという人が主イエスの十字架を無理やり担がされたと語られています。ところがヨハネはそれを語らず「自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた」(17)と記します。ヨハネの意図は、主イエスがおひとりで十字架を、つまりおひとりですべての人の苦しみを、引き受けられたことを明らかにすることでした。
私たちは十字架の救いにも条件があるかのように考えがちです。私たちがちゃんと罪を悔い改めなければ救われないとか、私たちがしっかり信じなければ救われないとか。けれども私たちには、思い出すことができない罪がたくさんあります。また、思い出した罪もその重大さをどれほどわかっているか、心もとないものです。私たちの信仰もしばしば揺るぎます。ときには主イエスを見失ってしまったように思うことも。しかし主イエスはおひとりで十字架を引き受けました。おひとりで、私たちに悔い改めを、信仰を造り出したし、造り出しているし、造り出し続けるのです。
【ユダヤ人の王】
主イエスの十字架の上には罪状書きが掲げられました。「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」(19b)と。ここでもヨハネは他の三つの福音書とちがって「ナザレ人」の一句を記しています。主イエスが人となったのは事実でした。神が、ナザレという町にほんとうに生き、実際の人としての悲しみ、喜び、苦しみを経験したのでした。
そしてこれもヨハネだけが「それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」(20b)と記します。ユダヤ人のへブル語、ローマ帝国のラテン語、地中海沿岸世界の共通語であるギリシア語。つまり世界のすべての人に対して、主イエスがユダヤ人の王であること、つまり神がアブラハムに約束された、世界すべての人の救い主であることを宣言しているのです。私とあなたとそしてすべての人の。
【救いの四つ顔 その2「赦罪」】
救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、今朝は先週に続いて、もうひとつの顔をお話しします。それは罪の赦し。ルターによるなら「罪とは自分の内側に折れ曲がった心」。神への愛、他者への愛からそれて自分に向かう私たちの心のありようが罪。引用します。
では神は人が犯してきた罪をただ見過ごされるのでしょうか。そうだとするなら神は虐げられた者たちの叫び に対して耳を閉ざすお方なのでしょうか。もちろん神はそんなお方では ありません。神は私たちよりも、はるかに正義を愛します。悪がはびこるのを許しません。このことは私たちには両刃の剣となります。なぜなら私たちは罪を犯してきたからです。神が正しいお方であるならば、私たちが傷つけてしまった人々の心の痛みや、私たちが愛を出し惜しんだゆえの人々の悲しみをそのまま見過ごすことはなさらないでしょう。私 たちは自分の罪を償わなければならないのです。ところがここに問題が あります。私たちには罪の償いをすることができません。もっている財 産のすべてや命を差しだしたところで、すでに犯してしまった罪の償い とすることはできないのです。
イエスが十字架上で発したもう一つの言葉は、「わが神、わが神。どう してわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ 15:34)です。この問い に父なる神は完全な沈黙を貫きました。イエスという子なる神が見捨てられたのです。見捨てたのは父なる神。神に見捨てられるということは、永 遠の滅びを意味します。滅びとは絶望です。愛も交わりもないばかりか、いつか絶望が終わるという希望もない絶望が滅びです。宇宙船で船外活動 をしている宇宙飛行士を考えてみてください。事故で彼と宇宙船をつないでいたロープが切れてしまったらどうでしょう。彼はどこまでも宇宙船か ら遠ざかっていきます。宇宙の彼方へとどこまでも。もう愛や交わりの中に戻ることができる見込みのない絶望の中で。滅びとは、血の池や針の山 といったものではなく、神から切り離される絶望 なのです。
ただし、この絶望は神が望んだもので はないことを忘れてはならないでしょう。すでに 見たように神は和解の手を差し伸べています。この手を払いのけ続け、拒み通した者だけが滅びます。ですから滅びは自分 で選び取るものです。神を選ばないということが滅びを選ぶことです。私たちの意志に反して私たちを救うことは神にもできないのです。 また、「結局のところ、イエスは3日後に復活した。だからイエスの経験した滅びは、みせかけ。本当の滅びではないのではないか」と考える人もいるかもしれません。けれども後に復活するからといってこの滅び が茶番だとは言えません。イエスの三日間の滅びは、その中では復活の望みも断たれてしまう絶望であったにちがいないからです。
こうして子なる神は、父なる神に見捨てられて滅びました。本来、滅びなければならないのは私たちでした。けれども、私たちが滅びることに耐えることができない神は、私たちの代わりにご自分で償いをしてください ました。イラストが助けになるかもしれません(イラスト参照)。父の審きである断絶の剣が盾に突き刺さって防ぎ止められています。盾がかばっているのは罪人である私たち。その盾に描かれている十字架、この十字架 には子なる神が架けられています。父なる神が子なる神を見捨てることに よって、いわば自分を罰することによって私たちを赦したのでした。(「聖書は物語る 一年12回で聖書を読む本」88-89ページ)

赦された私たち。たがいに赦し合いながら、この救いのいのちを喜びます。