2024年3月3日の説教要旨

2024年3月3日
受難節三主日礼拝
説教「よみがえった神」
ヨハネの福音書20章1-10節

主イエスが十字架で息をひきとったのが金曜日。ユダヤでは一日が日没から始まります。ですから主イエスが葬られた後すぐに、土曜日が始まりました。安息日ですから、だれも墓へ行くことはできません。そして次の日没で安息日が終わります。まだ真っ暗ですから、その夜が明け始めるのを待ちかねて、「朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」(1)とあります、日曜日の朝です。

【主イエスのそばに】

これまでもヨハネの福音書には、他の福音書と異なる記述があることをお話してきました。この個所も他の福音書では、イエスの遺体に香料を添えて丁寧に埋葬し直すために何人かの女性が墓に行ったとあります。

ヨハネの福音書では、マグダラのマリアは一人だけです。またニコデモとアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬されたイエスのお体は埋葬し直す必要はありませんでした。ですからマグダラのマリアは、ただ主イエスにそばにいたかった、墓で悲しみに浸り、涙を流したいと願ったのでした。私たちまた大きな痛みに出会うとき、ひとりで涙を流したいと思います。そうすることで、しだいに癒され、喪失を受け入れ、少しずつ前に進んで行くことができるようになるからです。

【走り出す!】

 ところが墓の入口をふさいでいる大きな石が取りのけられている見たマリアは動揺します。そして走り出します。「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子(ヨハネ)のところに行って」(2)と。知らせを受けたペテロとヨハネも走り出します。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。」(4)とありますから、ヨハネはペテロよりも早く着いたのですが、ペテロの到着を待ちます。そんなことをするぐらいなら、ペテロのスピードに合わせて走ればよさそうなものですが、ヨハネは力いっぱい走りました。墓にはいない主イエスに向かって。愛ゆえに。愛ゆえの疾走。こうして静かなはずだった日曜日の朝は、だれの予想も超えた騒ぎになりました。イエスを愛する者たちが一斉に走り出したのでした。

【理解する前に愛ゆえに】

墓に着いた彼らは「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。」(6-7)のを見ました。そこに主イエスのお体はなかったのです。もぬけのからだったのです。マリアは「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(2)と言いましたが、これが当然の反応でしょう。死体がなければ、だれかが動かしたのだろうと考えるのが常識です。

けれども、「そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」(8)とあります。ヨハネは信じたのです。主イエスがよみがえって生きておられることを。次の節には「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」(9)とありますから、ヨハネは頭でわかったのではありません。頭ではなく、心で、存在で、主イエスの復活を知ったのでした。

このとき信じたのは、マグダラのマリアでもなく、弟子筆頭のペテロでもなく、ヨハネだけでした。ヨハネは「イエスが愛された弟子」と呼ばれています。ヨハネがイエスの復活を知ることができたのはイエスに愛されたからでした。マリアやペテロはイエスに愛されていなかった、といういのではありません。イエスの愛がイエスの復活を信じさせる、そのことが語られているのです。

【走り出せ!】

ですから私たちはイエスの復活を信じています。理解できないのですが信じている。それは私たちが信仰深いからでも、霊的にすぐれているからでもありません。ただ、主イエスが私たちを愛してくださって、私たちにどうしてもご自分が生きておられることを知らせたて、理解できない私たちの存在に働きかけ、働きかけ続けてくださっているのです。信仰とは今も続いている神さまの働きかけです。そんな復活の光の中を私たちも走り出しました。今週も走っていきます。仲間とともに、愛に向かって。

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