2024年9月22日 第四主日礼拝 説教「漁師にする主」 マタイの福音書4章18-25節 |
私の説教の説教題は前の月の中ごろに決めます。次月の信愛の月報や明野の礼拝案内に載せるためです。すると実際に説教するときには、ちがう題のほうがよかったかな、と思うことがあります。今日もほんとうは「従わせる主」がよかったかな、とも思います。その理由は今日の聖書箇所を貫いているの「イエスに従った」だからです。20節でペテロとアンデレが、22節でヤコブとヨハネが、25節で大勢の群衆が「イエスに従った」のでした。
【なぜ?】
これらの人びとはなぜ、イエスに従ったのでしょうか。一見すると、群衆が従った理由はわかりやすく思えます。「イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。」(24)とあるからです。イエスが人びとを癒したので、人びとはイエスに従ったのだろう、そんな気がするのです。
けれども、弟子たちの場合は、なにかよいことがあったからイエスに従ったわけではありません。ただイエスに招かれ、それだけで従ったように見えるのです。実はルカの福音書には、ペテロたちが従ったいきさつを異なる描き方をしています。イエスが網が破れそうな大漁の奇蹟を行っているのです。
ルカとちがって、マタイが大漁の奇蹟を記さないのには理由があります。それは弟子たちが奇蹟を見たからではなく、福音を聞いたから従ったことを明らかにするため。今日の箇所の直前の17節。「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」とあります。イエスが、神の国(天の御国)の到来を告げ、主イエスに向き合うように(悔い改め)招いたから、弟子たちは従ったのでした。
実は群衆も同じでした。確かに主イエスは癒しの奇蹟を行ないました。けれども「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(23)とあります。まず「御国の福音」が宣言されているのです。だから群衆は従ったのでした。私たちの中にも、病やいろいろな困難がきっかけで教会に足を踏み入れた人も多くいるでしょう。そして福音を聞き、新しいいのちを受け取り、主イエスに従いました。もともとの病や困難が解決した場合もあり、そうでない場合もあるでしょう。けれども、主イエスが福音によって私たちの歩みを変えてくださいました。ご自分に従う者としたのです。ここでも主語はイエス、その動機は愛です。
【来なさい、わたしの後ろに】
「わたしについて来なさい」(19)は、もっと原語のニュアンスを出せば「来なさい、わたしの後ろに」となります。長距離走や自転車レースなどでは、先頭を走る人が風除けになります。先頭はもっともたいへん。私たちはイエスについて行くことは、たいへんだと身構えるのですが、逆です。私たちの先を行くのは十字架と復活のイエス。私たちのために何も惜しまないお方が私たちの風除けとなってくださいます。この破れてしまった世界で、暴風雨の中を、イエスなしに自分の力で歩こうとして疲れ切ってしまった私たちであったことを思います。そんな私たちをイエスは招きます。「もうだいじょうぶだ。あなたが味わってきた困難を、痛みを、悲しみや憎しみ、自分を責める思いをこれからはひとりで負わなくてよい。わたし(イエス)が負うから、あなたは来なさい、わたしの後ろに」と。
【すぐに捨てて】
「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」(20)とあります。「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。」(22)とも。ここを読むと、私たちは「自分はすべてをすぐに捨てているだろうか」と不安になったりします。けれども心配はいりません。イエスは、私たちみんなが仕事をやめて牧師になったり、財産のすべてを献金したりすることを願っておられるのではありません。
主イエスが願っているのは、私たちが主イエスの後を、主イエスの足跡を踏みながら一歩一歩ついて行くこと。そうするうちに、何かを手放さなければこれ以上ついて行くことができない、そういうときがきたら、それを手放せばよいのです。私たちが持っているものはすべてよいものです。神さまがくださったよいもの。それを軽くにぎって、主イエスについていくのです。そうするときに、私たちのまわりの人びとも主イエスを知ることになるのです。