2025年4月6日の説教要旨

2025年4月6日
受難節第五主日礼拝
説教「ダビデの子である主」 
マタイの福音書1章1-17節(1)

いよいよ三教会共働体制が始まりました。すべては、同じみ言葉をいっしょに聴くことからです。今日からマタイの福音書。冒頭の系図の部分、内容が豊かですので、今回と次回の2回にわたって聴きたいと思います。

【イエス・キリストの系図?】

みなさんは不思議に思われたことがないでしょうか。「イエス・キリストの系図」と書いてあるのですが、実際は、これはヨセフの系図です。そしてイエスはマリアから聖霊によって生まれました。つまりヨセフの血はイエスには入っていないのです。では、いったい何のための系図なのか。もちろんこの系図にはとてもたいせつな目的があります。

【アブラハムの子】

この系図はアブラハムから始まっています。当然アブラハムにも先祖はいました。けれどもアブラハムから神の民イスラエルの歴史は始まりました。私がよくお開きする箇所ですが、「はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい…あなたは祝福となりなさい…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」(創世記12:1-3)とあります。

三つの愛、神への愛、人への愛、被造世界への愛、が破れてしまった世界の回復を、神さまは始められました。アブラハムとその子孫を通して。アブラハムとその子孫と共に。この神の大きな物語、大きな愛の物語の、いわば切り札として主イエスはこの世界に来てくださいました。

【ダビデの子、イエス・キリスト】

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(17)とダビデが強調されています。

ダビデはさまざまな弱さを抱えた人物でしたが、やはりイスラエル最高の王でした。「人はうわべを見るが、は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7e)とおっしゃった神さま。ダビデの心は神を愛し、神と共に働く心でした。そんな心はだれよりも、子なる神であるイエスの心でした。

王は民を愛し、自分の民のために戦って、自分の民を敵の支配から解放する。主イエスこそは王の中の王。私たちの究極の敵である、罪と死の力から私たちを解放してくださいました。ご自分の民である私たちを愛して。私たちをそのままにしておくことができないから。十字架の上でご自分を与え、復活によって死を蹴破って。

【バビロン捕囚からキリストまでが十四代】

神さまがパートナーとして選ばれたイスラエル。けれどもしばしば神さまからそれました。偶像礼拝、不正、貧しい者や弱い者への虐げ。その果てにイスラエルはバビロン捕囚にいたりました。神さまが導きいれてくださったカナンの地から切り離され、仲間から切り離され、異教の国で絶望を味わいました。私たちも聖書を読むときに、バビロン捕囚以後の旧約聖書については、ほとんど関心をもっていないと思います。

けれども、神さまはちがいます。捕囚の絶望の中にいる一人ひとりを数えるのです。悪王も善王も一人ひとり。なぜならアブラハムとその子孫を通して世界を回復する物語を、神さまは忘れておられないからです。そして絶望の中にある一人ひとりに祝福を注ぎ続け、悲しみと痛みを癒やし続け、希望を注ぎ続け、神とたがいを愛する愛へと招き続けたのでした。アブラハムからダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、バビロン捕囚からキリストまでの十四代、はそれぞれにまったく違った時代でした。けれども、そこを貫いて変わらないものがあります。それは世界を愛して回復する神さまの意志です。強い愛の意志です。

【慰めの系図】

だからこの系図は慰めの系図です。たとえバビロン捕囚の中にあっても神の大きな回復の物語は進められていたのです。現代は、社会にとっても教会にとっても衰退の時代であるかもしれません。コロナや少子化、高齢化など、大きすぎる問題に悲鳴をあげたくなるときがあるでしょう。

けれども、こうしているうちにも神の大きな物語は進行しています。私たちの歩みが前進しているように思えず、むしろ後退しているように感じられるときであっても。ですから、これもいつも申し上げることですけれども、私たちは置かれた場所でていねいに生きるのです。愛するのです。後退しているとしても、ていねいな後退があります。やけになってしまうのではなく、明日への芽をはぐくみながら、じっくりと周囲との関係を育むこと。それは社会や教会が成長に目を奪われていたときには成しえなかった、たいせつな働きです。

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