2025年6月29日の説教要旨

2025年6月29日
京都教区合同礼拝 
「のがれの町」
民数記35章22-29節

【のがれの町】

今から3000年以上前、そのころのイスラエルには不思議な町がありました。「のがれの町」です。そのころ、イスラエルでは人を殺した者は、被害者の家族によって殺されました。復讐が認められていたのです。けれども、わざとではなく、うっかりと人を殺してしまうこともあり得ます。例えば、下をよく見ないでうっかりと石を落としてしまい、その石がたまたま通りかかった人に当たってしまった場合などです。神さまがこのような場合のために定めてくださったのが「のがれの町」です。「のがれの町」はイスラエルに全部で6つありました。6つの町は、だいたい等間隔で配置されていました。30kmほどごとに。ですからイスラエルのどこにいても、まる一日、いのちがけで走れば、逃げ込むことができました。

神さまはわざとではなく、うっかり人を殺してしまった人の命が絶たれるのを惜しまれました。そしてそのことによって憎しみの連鎖が世界を覆っていくのをとどめたいと願われたのでした。

想像してみてください。あなたの後ろから、あなたが殺してしまった人の家族が大勢追いかけてきます。歯をむき出し、大きな声で叫びながら、その手には、棒や刃物が握られています。あなたは走って、走って、走ります。つまずいても起き上がり、傷だらけになり、息を切らして。でも、もうだめか、と思うその時に、遠くに「のがれの町」が見えてきます。あなたはなおも走ります。町の門にだれかが立っています。町を守るレビ人です。両手を広げてあなたを招いています。あなたはもうろうとしながらも走り続け、ついに、レビ人の胸の中に倒れ込みます。レビ人に抱きしめられたあなたの後ろで門が閉まります。あなたは救われたのです。

神さまはのがれの神。私たちが、トラブルに巻き込まれるときも、神さまが私ののがれの場所となってくださいます。ときには、人から言われのない非難を受けることもあるでしょう。よくあることです。けれども、すべての事情も状況もご存じの神さまが、私たちののがれとなってくださいます。恐れてはなりません。自分を守ろうとあわてて、まるで神さまがいないかのように、ののしり返したり、傷つけ返したりする必要はない。落ち着いて、神さまがすべてを明らかにしてくださるのを待てばよいのです。

【のがれの神】

この個所を読むときに私には一つのイメージが浮かびます。両手を広げたレビ人の姿が、両手を広げて十字架に架けられたイエス・キリストです。古代のイスラエルではのがれの町に逃げ込むことができたのは、過失による殺人者だけでした。けれども、キリストの十字架の死は、故意による殺人者をも赦します。だれかに対する憎しみにかられた人が、そのだれかを、この世界から消し去ろうと 決意して、殺人を実行したとしても、キリストの十字架は、その罪に赦しを与えるというのです。それだけではありません。私たち自身も、殺人者。私たちはときに、思いやことばによって殺人を犯します。「あの人などいないほうがいいのに」と思うなら。それは、思いにおける殺人。神さまが造ってくださった私たちのたいせつな仲間がいなくなってしまえば、と思ってしまうのは罪です。決して小さいとは言えない罪なのです。けれども、神さまは、そんな私たちを愛する神さまです。私たちを惜しんでくださって、罪びとの私たちがほろびることに耐えられなくて、ご自分の御子を十字架にかけてしまわれた神さま。そんなにも愛の神さまなのです。イエス・キリスト、あなたのための「のがれの町」に走り込んでください。神さまの胸の中に。

【大祭司の死】

のがれの町にかくまわれた殺人者は、そこから出ることができません。けれども「その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる」(35:28)とあります。これは、不思議な、なんとも説明のつかないことです。まるで、大祭司が、殺人者の罪を引き受けて、身代わりに死んだかのように、殺人者は赦されるのです。もし、だれかが、殺人者を罰しようと思っても、殺人者は守られ、殺人者を傷つける人は、かえって罰せられるのです。

キリスト教会は、この不思議を、イエス・キリストこそがまことの大祭司なのだと、理解してきました。ほろびなければならない私たち。けれども、キリストは、あののがれ町の門のレビ人のように、手をあげて「待て」とおっしゃいます。「のがれの神に逃げ込んだこの人を滅ぼしてはならない」とおっしゃるのです。「ここから、先へは、行かせない。なにがなんでも、行かせない。この罪びとには手出しはさせない。どうしてもほろぼすと言うのなら、わたしをほろぼすがよい」と言って、死んでくださった。十字架で滅びてくださった。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫んで滅びてくださったのです。だから、私たちは生きることができます。喜びをもって。注がれた愛を注ぎ出しながら。

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