2025 年12月21日 クリスマス礼拝
説教「和解の主」
マタイの福音書5章21-26節
クリスマスおめでとうございます。先 週は、私
たちには律法学者やパリサイ人たちにまさる義が与
えられていると語りました。それはイエ ス・キリ
ストが与える義。律法学者たちは、いたず らに神
を恐れ、その怒りをかうことがないように と、律
法のまわりに何重にも安全柵を張り巡らし、 自ら
もその中に閉じ込められていました。けれども イ
エス・キリストは十字架の上で、私たちの過去・
現在・未来の救いをなしとげてくださいました。私
たちを神と人を愛する自由へと解き放ってくださっ
たのでした。今日の箇所以降で、主イエスは、その
自由が、私たちの毎日を実際にどのようなものにす
るかを語ってくださいました。聴きましょう。解き
放たれましょう。ますます。
【殺してはならない】
律法には「殺してはならない。」とあります。
律 法の中心である十戒の第六戒です。けれどもこ
の律法があっても殺人はなくなりませんでした。今
も。 殺すことがない世界を、という神さまの願い
はまだ、実現していないのです。主イエスはその実
現の ために来られました。神であるのに人となっ
て。最初のクリスマスに。
けれども主イエスは、律法学者やパリサイ人た
ち とはちがって、律法のまわりに安全柵を張り巡
らすことはしません。外から私たちを規制するので
はなく、私たちの内側から心を変えてくださったの
で す。神であるのに十字架に架けられて。「そう
いうわけで、子たちがみな血と肉を持っているの
で、イエスもまた同じように、それらのものをお持
ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわ
ち、悪 魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖
によって 一生涯奴隷としてつながれていた人々を
解放するためでした。」(へブル2:14-15)。とあ
るとおり、罪 と死の力を滅ぼして、私たちを解き
放ってください ました。だから私たちは愛するこ
とができます。
【和解の主】
主イエスは、神の心を知らない律法学者やパリ
サ イ人たちに心を痛めました。だから私たちに神
の 心、主イエスの心を与えてくださいました。た
だ殺さなければ、それでいいというのではありませ
ん。 殺意には理由があるでしょう。相手の存在を
消し去 らないではいられないほどの、恐れや痛
み、憎しみが。主イエスはそんな人間関係に和解を
もたらす和 解の主。癒しの主。
「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばか
れます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに
投げ込まれます。」(22)とあります。仲間をののし
りたい思い。主イエスはそんな私たちの思いを、よ
くご存じです。人となったイエスは、人の痛みを味
わってくださったからです。よくよく分かった上
で、主イエスは言います。「ですから、祭壇の上に
ささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分
を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそ
こに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟
と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ
物を献げなさい。」(23-24)、また「あなたを訴え
る人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。」
(25)と。
主イエスは和解の主。殺さない以上に、私たちが
心から和解し、赦し合い、受け入れ合って、愛し合
うことを願っておられます。実現してくださいま
す。
【復活の主】
私たちは、どうしたらそんなことができるのだろ
うか、と思ってしまいます。相手を取り除かなけれ
ば、自分が生きていけないような、どうにかなって
しまいそうな、そんな痛みの中で、どうして和解す
ることなどできるだろうか、と。
思い出すのはカイン。アベルを妬んだカインに神
さまは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを
治めなければならない。」(創世記4:7c)と語りか
けます。カインは罪を治めることができませんでし
た。けれども、私たちはカインとはちがいます。な
ぜなら罪の力である悪魔は滅ぼされたからです。そ
して私たちには、主イエスのいのちが注がれている
からです。愛するいのちが。神であるから復活した
ことによって。
どうか、私たちには神の心、神の願い、自分に痛
みを与える者との和解を願う心が、すでに与えられ
ていることを忘れないでください。そしてさらに、
その和解を実現することのできるいのちが始まって
いることも。 私たちに敵対し、私たちに痛みを与
える者たち。 彼らもまた痛みに苦しむ人びとで
す。双方が痛んで いる手詰まりの中で、どちらか
が自分を差し出すことができれば、和解の糸口が開
かれていきます。私 たちにはできないけれども、
主イエスがそうさせて くださいます。
