2026年3月22日の説教要旨

2026年3月22日 
受難節第五主日礼拝
説教「天を仰ぐ主」
マタイの福音書6章9節

「主の祈り」の第二回。今日も心を合わせて祈りつつ、耳を傾けましょう。

【あがめさせたまえ】

天の父への呼びかけに続いて、主の祈りは六つの願い求めを記します。今日はその最初の「願わくはみ名をあがめさせたまえ」。この「あがめさせたまえ」には大きな誤解があります。私たちはこれを「私たちが、あがめることができるようにしてください」という意味だと思っています。けれども本来は「神ご自身が、み名をあがめられるものとしてください」という意味。私たちが用いている主の祈りは1880年の訳。150年前には誤解の余地がなかったのですが、日本語が変わってきたのです。それで「私たちが」という誤解が起こってしまいます。

【聖とするお方】

口語訳の主の祈りでは「み名が聖とされますように」とあります。聖書が「聖」というとき、それは、「神のものとされた」ことを意味します。イスラエルが「聖なる民」であるのは、神がこの民を選び、ご自分の民とされたから。安息日が「聖なる日」であるのは、神がこの日を選んで、神を礼拝する日としたから。ですから何かが聖なるものとなるのは、神がご自分のものとして選んだから。私たちがどんなにあがめても、それで「聖」となるわけではありません。み名を聖とするのは神さまご自身なのです。

エゼキエル書36章にこうあります。「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。(中略)わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが【主】であることを知る──【神】である主のことば──。」(エゼキエル36:17-18、23)

暴虐と偶像礼拝によって、神のみ名を汚したイスラエル。そのイスラエルに神は「あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す」と語ります。捕囚で散らされたイスラエルを、もう一度選んで、集め、ご自分の民とすること。そんな神の愛が輝くこと、それが「み名を聖とすること」なのです。人はただその愛を受け取るだけ。私たちが神のみ名を聖とすることとは真逆です。

【み名を汚す私たち】

私たちは繰り返し、神のみ名を汚しています。ルターは罪を「自分の内側に折れ曲がった心」と読みました。そんな心の、愛の足りない思いが、愛の足りない言葉が、愛の足りない行動が、神のみ名を汚します。私たちが、神のみ名を聖とするどころか、神のみ名を汚していることに気づくとき、私たちの心は痛みます。

【闇を照らす光が】

けれども、そこに主イエスの福音が響き渡ります。「父よ、み名が聖なるものとされますように!」。

そもそも私たちはみ名を汚すことができるのは、私たちが神の民だからです。神の民でない者は、神のみ名を汚すこともできないのです。そして、神はご自分の民を決して見捨てることがありません。放蕩息子のたとえのように、父は息子が罪深ければ、罪深いほど、なお愛を注ぐのです。注がないではいられないのです。必ずご自分の子をとりもどし、洗って、子としての装いをさせ、大宴会を催すのです。そのように神のみ名は聖なるものとされます。世界が神の愛の大きさを、あわれみの深さを、赦しの限りなさをほめたたえるのです。不思議なことです。私たちの汚れが、神のみ名を聖とするのです。私たちが胸を張るような功績ではなく。

そんな私たちは、神を喜びます。神ご自身を喜び、そんな神の民とされた互いを喜び合います。そんな喜びの教会は、神ご自身がみ名を聖とする器です。功績ではなく、汚れを赦され洗われたことによって。汚れを赦され続け、洗われ続けていることによって。京都信愛教会・天授ヶ岡教会・明野キリスト教会のそれぞれに高く掲げられた主イエスの十字架が指し示すとおりに。

目次