2026年5月3日の説教要旨

2026年5月3日 
第一主日礼拝
説教「赦し、赦させる主」
マタイの福音書6章12節

今日も続いて主イエスが教えてくださった、主の祈りから聴きます。マタイでは「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」(6:12)。私たちが先ほど祈った主の祈りでは「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」

【負い目?罪?】

マタイでは「負い目」、同じ言葉を主の祈りでは「罪」と訳しています。同じような言葉ですが、「負い目」と「罪」には、やはり、ニュアンスのちがいがあります。負い目には、罪そのものだけではなく、罪がもたらした結果の影響の処置に関わるニュアンスが含まれています。私たちがだれかを傷つけるとします。その人が受けた傷はうずいて、その人を苦しめ、その人の生涯に変化を生じさせてしまいます。ときにはその人を駆り立てて、他の人を傷つけるという負の連鎖を引き起こしてしまいます。そんなとき私たちが、「これからは人を傷つけないように気をつけよう」と思うだけではじゅうぶんではありません。私たちは、相手に対して申し訳なさを感じます。精神的な負担、つまり負い目を感じるのです。負ってしまった負い目という重荷は、私たちを苦しめます。一度してしまったことは取り返しがつきません。ですから私たちは、自分では下ろすことができない重荷を負って苦しむのです。

【負い目の赦し】

だからそんな私たちに、主イエスは主の祈りを教えてくださいました。「私たちの負い目をお赦しください。」と。取り返しのつかない、なかったことにできない、私たちの負い目を赦すことができるのは神さまだけ。人にはできないことでも、神にはなんでもできるのです。けれども、同時に私たちは知っておかなければならないことがあります。それは私たちの負い目を赦すためには、神である主イエスが十字架に架けられなければならなかったこと。つまり、神であっても十字架抜きで、私たちをお救いになることはできないことです。そして、神が十字架に架かってくださったことによって、私たちの罪と罪から生じるすべての負い目は赦され、私たちはその重荷から解き放たれたのでした。

【我らが赦すごとく】

けれども、神さまが私たちを解き放つのは、私たちの犯した罪の負い目からだけではありません。私たちもまた、他の人の罪によって傷つけられます。その痛みにうめき、相手との関係が歪んでしまったことにうめき、その関係を修復することができずにうめくのです。もちろん、神さまは私たちと相手をそのままで放っておくことがおできになりません。私たちと相手の、たがいに愛し合えない苦しみをまた、ご自分が引き受けてくださいました。主イエスの十字架によって。私たちの負い目を、相手の負い目を、私たちと相手の間にある負い目をすべて。

私はクリスチャンになってから長い間、主の祈りの今日の箇所に違和感がありました。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」と聞くと、まるで「私は相手を赦しました。だから私を赦してください。」と、まるで、相手を赦すことを交換条件に私が赦されるように思えたのです。

しかし実際は、この訳は適切ではありません。正しい順序はマタイの「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」です。つまり「神さま、私たちの罪とその負い目をお赦しください。(主イエスの十字架によって、すでにすべての罪と負い目を赦してくださったことを、私たちは知っています。だから)私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦すことができます。この喜びを感謝します。」と祈るのです。

【1万タラントのたとえ】

もう一か所、マタイ18章の21節から終わりまでを開きましょう。1万タラントは現在の数兆円。私たちの、そして全世界の、このあり得ない金額の負債が赦されました。主イエスの十字架によって。でももし、私たちがたがいに負い目を赦され、すでに解き放たれていることを忘れたかのように生きるなら、それは神さまの大きな悲しみになります。ペテロは、それがまだわかっていません。仲間を赦すことを願いつつも、それを自分にできる範囲で、と考えていたのです。けれども、やがて十字架、そして主イエスの復活と聖霊の注ぎによって、ペテロは気がつきました。自分が夢中になって、赦し、愛し、自分に罪を犯す人びとを、自分と同じ喜び、自分と同じ自由の中に入れようとしている自分に。私たちもまた。

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