2022年12月11日 待降節第三主日礼拝 説教「父から遣わされた神」 ヨハネの福音書7章10-24節 |
いよいよクリスマス(降誕祭)まで2週間。今日も仮庵の祭りで語られた主イエスの愛の言葉を聴きます。
【良い人なのか、惑わしているのか】
イエスは内密に仮庵の祭りのためにエルサレムへ上って行きました。当時群衆の間にはイエスについての見方が分かれていました。「ある人たちは『良い人だ』と言い、別の人たちは『違う。群衆を惑わしているのだ』と言っていた。」(12b)とある通りです。このころすでに律法学者たちと主イエスの教えのちがいは明らかになっていましたから、人びとはどちらが神からの教えを語っているのだろうか、と、それをめぐって分かれていたのでした。
【自分から語る律法学者】
かつてイエスがべテスダの池で38年間苦しんでいた病人を癒したとき「そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。」(5:16)とあります。安息日に、さしせまった命の危機にあるわけではない病人を癒したからです。そんなことをすれば、神の怒りをかってしまい、また、バビロン捕囚のようなことが起こるのではないかと恐れていたのです。しかしそれは、自分勝手な解釈で、神さまの思いとはかけ離れたものでした。
【神からの教えを語るイエス】
けれどもイエスは彼らが「自分から語っている」のであって「この教えが神から出たもの」(17)ではない、と言います。ユダヤ人の中で神の教えである律法に最も詳しいのは律法学者たちでした。けれどもイエスは「律法学者たちは神からの教えを語っているのではない。自分たちの解釈を語って、たがいに栄誉を与えあっているだけだ」と言います。律法学者たちは一見、「安息日にいかなる仕事もしてはならない」という十誡(律法の中心)に忠実なように見えます。ところがイエスは、「律法学者たちは律法の心、神の心に忠実ではない」と言うのです。
いつも申し上げる通り、律法は「神と共に歩く歩き方の教え」です。守れば救われ、破れば罰せられるのではありません。ただ神のあわれみによって、救われた私たちが、神の胸の中で、神の心、神の体温を感じながら生きるための教えなのです。
イエスは神のひとり子、つまり子なる神です。父なる神の心、父なる神の体温を、イエスほどよく知っている方はいません。イエスも同じ心、同じ体温を持っているのです。「この教えが神から出たもの」とイエスが言うとき、それは単なる教え以上です。私たちが、神の心、神の体温を知るようにと招いてくださっているのです。
ベテスダの池での癒しは、神の心、神の体温を知る者にとっては当然のことです。もともと安息日の目的は、ただ仕事をしないことではありません。神と共に時を過ごし、神を喜び楽しむためです。ですから、不急であっても安息日のいやしは、むしろ神の心、神の体温にかなっているのです。イエスはこのことを伝えようとして「モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。」(22)と言いました。割礼の起源はアブラハムにあります。つまりモーセを通して与えられた律法よりも、さらに古く根源的なのです。生まれてから8日めに施す割礼は、神の民であることの喜びの印です。泣きわめく赤ん坊に施す割礼でさえも喜びの印であるならば、38年間の病をいやされた神の民の喜びは、神の喜び以外のなにものでもないのです。
【父から遣わされた神】
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」(16)とあります。イエスは父なる神から遣わされた子なる神。神であるのに人となり、神であるのに十字架に架けられた神。しかし「であるのに」は不要です。なぜなら私たちをあわれむ神の心、神の体温は、なにも惜しむことがないからです。ご自分を十字架に与えたイエスの心、イエスの体温こそ、父なる神の心と体温の極みです。それは、私たちに神の心と神の体温を教えるために、いえ、教えるだけではなく、私たちに神の心と体温を与えるためでした。今、聖餐に与る私たちに。