2022年12月18日 待降節第四主日礼拝 説教「子を遣わした神」 ヨハネの福音書7章25-36節 |
先週は「父から遣わされた神」という説教題。今日は「子を遣わした神」。このように父と子はひとつの心でクリスマスをプレゼントしてくださいました。今日もそんな神さまの愛の言葉を聴きます。
【迷う人びと】
「さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。『この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。』」(25-26)とあります。ユダヤの指導者たちはすでにイエスを殺そうと考えていました。イエスが安息日に病人を癒し、また、ご自分を子なる神だとしたからでした。ところが、イエスがエルサレムで公に語り始めたのに、だれも手をかけようとはしません。そこで人びとは、ひょっとしたら指導者である議員たちが、イエスがキリスト(救い主)だと認めたのではないか、と思ったのです。
ところが、彼らはすぐにそんな思いを打ち消しました。「しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」(27)と言いはじめたのです。彼らはイエスがナザレから来たことを知っていました。イエスの素性を知っていたのです。救い主はそんな普通の人であるはずがない、それが彼らの思いです。救い主は、突然、どこからともなく、スーパーヒーローとして現れるはずだ、と。こうして彼らは、ひとときは主イエスが救い主であるかもしれないと思ったのに、そこからそれてしまいました。
彼らには神がほんとうに人となるということがわかりませんでした。自分たちと同じ弱く、飢えと病に苦しみ、悲しみの多い人になるということが。神がそれほど自分たちの近くに、自分たちのひとりになることなど、想像すらできなかったのです。
【イエスは大きな声で】
そこに主イエスの大きな声が響きます。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。」(28bcd)、また「わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」(29b)、と。人びとがご自分からそれていくのを、いのちからそれていくのを、主イエスは黙って見ていることがおできになりません。ですから大きな声で叫びました。彼らが「父から遣わされた子なる神」と「子を遣わした父なる神」の愛に気づくように、そしてその愛にとどまるように、と。この叫びは、今も私たちに響き続けています。アドベントが進むごとにさらに強く、さらに大きく。
【イエスの時】
しかしこの叫びは祭司長たちとパリサイ人たちをこれまで以上に怒らせることになりました。彼らは配下の者を遣わしてイエスを捕えようとしたのです。ところがヨハネは「イエスの時がまだ来ていなかったから」(30b)、イエスに手をかける者はいなかった、と記します。「イエスの時」がいつであるか、それはイエスご自身が語られました。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(33b-34)がそれです。もう少ししたら起こる十字架・復活・昇天がイエスの時なのです。それまではイエスを憎む人びとがどんなに躍起になってもイエスを捕らえることができません。いつも主語は神、と申し上げています。聖書の、そして世界の主語は神さまです。それは十字架でさえも。子なる神イエスが十字架に架けられることも、やはり神が主語で行われている、神が主導して、ご自身の心を注ぎだして行われたのです。
【愛ゆえに】
これもまた、いつも申し上げることですが、主語である神さまの動機は愛、です。「父から遣わされた子なる神」と「子を遣わした父なる神」が心をひとつに「イエスの時」を実現させたのは、私たちへの愛ゆえでした。私たちが神を知らずに絶望の中でしゃがみこみ続けていることがないために。私たちが愛し合うことを望みつつも、愛を注ぎだせないで凍りついたままでいることがないために。
毎月、明野では月間予定表を、信愛では月報を出しています。今朝はそれぞれ1月号を配りました。それぞれに今月の信仰良書というコーナーがあって、1月号には高橋秀典牧師の『心が傷つきやすい人への福音』をとりあげました。その最初のところに「 感受性の強さと繊細さゆえの傷つきやすさや、それに伴うさまざまな困難を、矯正されるべき欠点、癒されるべき痛みとみなすのではなく、主の恵みと慈しみが注がれる 窓口とみなします」とあります。これは心が傷つきやすい人ばかりではありません。私たちが困難に会うとき、途方にくれるとき、神さまはその困難を、愛を注ぎ込まれる窓口としてくださる。その窓口から愛を注ぎ込まないではいられないお方なのです。そのための世界で最初のクリスマスに、神が人となってくださいました。人となられたこの神を、今日も喜び合う私たちです。