2023年2月19日の説教要旨

2023年2月19日
第三主日礼拝 説教
「証しをする神」
ヨハネの福音書8章48-59節

ヨハネの福音書は主イエスがご自分を証したことをたくさん記しています。ここまでも主イエスはご自分が「いのちのパン」「世の光」「いのちの水の源」だと証しされてきました。ところがそれを聞いたパリサイ派のユダヤ人たちは主イエスに反発し続けます。そうであればあるほど増し加わる主イエスの愛。その愛のことばを今日も聴きます。

【決して死を見ることがない】

主イエスの愛のことばの極みは「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51)です。「まことに、まことに、」は主イエスが大切なことを語るときに用いることば。「あなたがたがいのちに生きるために、わたしは来た。わたしのことばで生きよ。わたしがあなたがたを生かす。死を超えてその向こう側まで」と招かれたのです。

【主イエスとはだれか】

ところがこのことばがユダヤ人たちを激怒させました。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」(48c)とあります。ここでサマリア人というのは悪口。異邦人はもともと神の民でないけれど、その異邦人よりももっとたちの悪い人びと、神のもとから離れ去って行ってしまった人びと、という悪口です。

ユダヤ人たちをこれほど怒ったのは「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(51b)が、これ以上ない傲慢(ごうまん)なことばに聞こえたからでした。神の子である主イエス、子なる神である主イエスがいのちを差し出しているのに、彼らは受け取ろうとしません。そして反論を続けるのです。

「あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」(53)がその反論です。彼らにとってアブラハムは最も偉大な人間です。アブラハムはユダヤ民族の祖。アブラハムゆえにユダヤ人は神の民とされました。「そのアブラハムも死んだのに、いったいお前は何様のつもりなのか」と怒ったのでした。

【アブラハムの喜び】

彼らに対する主イエスの答は、この個所のクライマックスであると同時に聖書全体のクライマックスとも呼べるところ。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(56)とあります。へブル書の11章にこの個所の解説ともいえる箇所があります。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(11-13)がそれです。アブラハムは、自分の子孫が数えきれないほどになるという約束の成就を見てはいません。そういう意味では途上で世を去った旅人です。けれどもアブラハムは約束してくださった神を信頼しました。だから神さまが自分を通してなそうとしてくださっていることを喜ぶことができました。神さまが世界の回復のために、自分と自分の子孫を用いてくださることを。

そして神の子、子なる神である主イエスはユダヤ人としてこの世界に来てくださいました。アブラハムの子孫として。アブラハムには知るよしもなかった壮大な神さまの愛の計画です。この計画を知らないときも、神さまを喜んでいたアブラハム。ましてやアブラハムがこれを知ったなら、どれほど感激したでしょうか。死んだも同然であった自分と不妊のサラから、こともあろうに子なる神が生まれるのですから。胸が破れるばかりに驚き喜ぶはずです。

けれども同時にアブラハムの胸は、痛みによっても破れんばかりにちがいありません。その子なる神が、十字架に架けられ、父との断絶を味わうのですから。それはアブラハムが、そしてすべての人が、もちろん私たちもが「いつまでも決して死を見ることが」ないためでした。そんないのちが、おたがいの中にもう始まっています。力の限り愛を注ぎ合ういのちです。

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