2023年4月16日の説教要旨

2023年4月16日第三主日礼拝 説教「死で終わらせない神」 ヨハネの福音書11章1-16節

先週はイースターをごいっしょに祝いました。主イエスは復活された!今も生きておられる!その喜びの中、今日も主イエスのみ声を聴きます。

【主イエスよ、なぜですか?】

「しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。」(6)とあります。その二日後、主イエスは「ラザロは死にました。」(14b)と言ってから、ユダヤに向かわれました。ですから、ラザロの病の重いことを知ったうえで、助けようとしなかったのです。それはラザロのことなど、どうでもよかったからではありません。「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(5)と、あるとおりです。では、なぜ?と、だれもが思います。

私たちも主イエスに愛されています。主イエスと共に踊るいのちに招かれ、もうすでに、踊り始めている。それなのに、病が、死が、困難が、苦しみが私たちを襲います。暴力と戦争や飢えの中にいる人びとも。なぜ、でしょうか。なぜ、主イエスは即座の解決を与えてくださらないのでしょうか。私たちを愛しているのに。

そこに今日の福音が響きます。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(14)と。主イエスのおっしゃるのはこうです。「ラザロはこの病気で死ぬ。けれども、それで終わりではない。ラザロの死を通して神の栄光が現れる。」と。主イエスには、このときの弟子たちにはわからない深い思いがありました。「神の栄光は、わたしがラザロを死からよみがえらせることによって現れる。それは神の子であるわたしの栄光でもある。なぜなら、ラザロの死とよみがえりは、わたしの十字架と復活のしるしだからだ。わたしの栄光は、十字架に架けられ、墓に葬られて完全な死を経験したのち、復活することによって現れる。恥辱にしか見えない中から栄光が。敗北にしか見えない中から勝利が。神の栄光はすべての人にいのちを注ぐことであり、神の勝利はすべての人を罪と死の力から解き放つことだから。だから、今、ラザロが死ぬことに絶望してはならない。神にはできないことがあるなどとしゃがみ込んではならない。ましてや神は自分たちを見捨てたなどと思ってはならない。今のあなたがたの苦しみは神に知られている。その苦しみを通して神の栄光が現れる。世界が回復されていく。今は、そうは思えなくても。今は、どのようにして、そんなことが実現するか想像もできなくても。」

こんな思いを胸に主イエスは招かれます。「さあ、彼のところへ行きましょう。」(15b)。「さあ、生きよう。苦しみの中でも、生きよ。希望が見当たらないように思える中でも、生きよ。わたしがあなたの人生に栄光を現す。わたしがあなたの苦しみに意味を造り出す」と。

【フランシスコ会修道士の祝祷】

ある牧師が、「フランシスコ会修道士の祝祷」というのを紹介していました。公式なものというよりも一人の修道士によるもののようです。

願わくは、神があなたを「不快感」を通して祝福してくださいますように。「安易な応答、不誠実な曖昧さ、形式だけの関係」などによっての不快感。それゆえ、あなたは真心を込めて生きられますように。

願わくは、神があなたを「怒り」を通して祝福してくださいますように。「不正、圧政、そして人からの搾取」への怒り。それゆえ、あなたが「公正・自由・平和」のために働くことができますように

 願わくは、神が「」を通して祝福してくださいますように。「苦痛と痛み、拒絶、空腹そして戦争」によって流す「涙」。それゆえ、慰めるために手を差し伸べ、苦痛を喜びに変えられますように。

 そして、願わくは、神が「存分の愚かさ」を通して祝福してくださいますように。「世界に変化をもたらすことが可能だと信じる愚かさ」。それゆえ、多くの人達が不可能だと宣言している事柄を成し遂げ、公正と親切とがすべての子供達、貧しい人たちに届きますように。

「不快感」「怒り」「涙」「存分の愚かさ」、これらはみな、人生の負の要素に思えます。破れた世界においてこのような負は確かに存在します。けれども私たちの神は、その負の中に意味を造り出すことができます。いえ、そうしないではいられないお方なのです。あなたを負の場所に置かれた、神の栄光としないではいられないのです。

【主と一緒に】

トマスは主イエスの招きに応えました。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(16b)と。けれども、私たちはこのトマスの熱意がいかにもろいものであったかを知っています。十字架の前夜、トマスも他の弟子たちも、みな主イエスを捨てて逃げてしまったのですから。しかし同時に、私たちは知っています。主イエスは、そんな弟子たちを赦し、招いてくださったことを。何度でも、何度でも、何度でも。私たちまた、そのような主イエスの胸の中で赦され、成長しているのです。

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