2023年4月23日の説教要旨

2023年4月23日第四主日礼拝 説教「いのちの神」 ヨハネの福音書11章17-27節

マルタとマリアとラザロのべたニアの家。今はラザロを失った悲しみの家。そこに響いた主イエスのみ声を聴きます。

【もしここにいてくださったなら】

悲しみの家にマルタの声が響きます。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21)と。マルタの主イエスを信頼しているのです。主イエスが来てくださりさえ、すれば必ず、助けてくださる、と。そこには「なぜ、もっと早く来てくださらなかったのですか」という訴えがあります。この「なぜ」を、私たちもしばしば経験します。「なぜ、このことが起こらないようにしてくださらなかったのですか」と。

続くマルタの言葉には、胸がしめつけられるような気がします。「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(22)です。愛するラザロを失いながらも、「今でも」と言うのです。けれどもそこには、主イエスへのかすかな信頼が香っています。マルタはこれから起こることを知りません。想像もできません。けれども、言うのです。「今でも、主イエスを信頼している」、と。これを読んで「マルタの信仰は立派ですね。私たちもならいましょう」などと言って済ませてはなりません。マルタにこの信仰を与えたのは主イエスです。そして主イエスは、マルタと同じ信仰を私たちに与えてくださっています。絶望のときにもかすかに香る主イエスへの信頼を。

【主イエスの宣言】

そして主イエスのみ声がこだまします。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23b)と。これに対するマルタの答えは、たいへん正統的なものでした。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」(24b)がそれです。これは私たちも知っています。人は死んで眠りにつき、再臨の日に復活する、と。だからマルタの答えにはなにもまちがったところはありません。

ところが、主イエスは、いつものようにマルタを、そして私たちを驚かせます。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23a)と。主イエスは、そのとき、その場で、ラザロをよみがえらせると言い、その通りになさったのです。ラザロのよみがえりは、主イエスの最大の奇蹟。けれども不思議なことがあります。主イエスは、ラザロだけをよみがえらせた。しかもラザロがよみがえったのは、しばらくの間だけ。その後、ラザロはまた死んだのです。いったいそこに何の意味があるのでしょうか。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25b-26)がイエスの答えです。この主イエスの答えに言葉を補いながら、言い替えるとこうなります。「わたしはいのちだ。その意味をあなたがたが知ることができるように、ラザロをよみがえらせよう。見るがいい。死んだラザロがよみがえる。わたしは死よりも強いからだ。(なぜなら、わたしが死の力を十字架で打ち砕くから。)わたしを信じたあなたがたに、わたしは死よりも強いいのちを与えた。このいのちは死によって断ち切られることはない。死んでも、死の向こう側にまで続く。このいのちは生きている者のうちにあって、永遠に断ち切られない。今、このいのちを知れ。このいのちを喜べ。このいのちを生きろ」と。

正統なマルタの復活信仰。主イエスはその正統な信仰を、さらに生き生きとした信仰に成長させました。復活のいのち、新しいいのち、永遠のいのちはもうすでに、マルタの中に始まっている、と知らせました。目に見える死の力よりも、はるかに強い豊かないのちが始まっている、と知らせたのです。

そのいのちは私たちのうちにも始まっています。悲しみと絶望の中でも主イエスの宣言は響いています。私たちの耳はしばしばこの宣言を聞き逃します。それでも主イエスの宣言は有効です。そして私たちは聞き逃した仲間にも、この宣言を思い出させ合うことができるのです。

ゴッホ ラザロの復活

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