2023年6月11日 第二主日礼拝 説教「心を騒がせる神」 ヨハネの福音書12章27-36a節 |
「今わたしの心は騒いでいる。」(27a)とおっしゃるイエス。私たちはこの言葉を聞くとき、神が心を騒がせるとは、どういうことだろうか、といぶかかしく思います。いったい神の心が騒ぐことがあってよいのか、と。神学校で教会史を教えるときに、神学生がきちんとできるまでしつこいほど行う演習があります。以下の文章に〇か×をつけてください、というものです。
①神の子が十字架に架けられた
②子なる神が十字架に架けられた
③神が十字架に架けられた
いかがでしょうか。ほとんどの人は①は◎、②については少し考えて〇、③は「むむむ」といったところではないでしょうか。答えはすべて◎。③は6世紀ごろさかんに用いられ、その後、「父なる神が十字架に架けられた、という誤りと混同されやすい」という理由であまり使われなくなりましたが、ルターによって再び語られるようになりました。神が十字架に架けられたのです。私たちの神は十字架に架けられた神。だからもちろん「心を騒がせる神」なのです。私たちのためには、平気でいることができず、心を騒がせてくださる神なのです。この私たちのために!
【心を騒がせる神】
主イエスの心は騒いでいます。「何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。」(27bc)と。けれども心騒ぎながらも、主イエスの愛はあふれます。「いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27d,28a)と。イエスの時が来ました。私たちのためにご自身をあたえる時、栄光の時が。私たちのためにご自身を与える時が、イエスの栄光の時なのです。けれども、それは主イエスだけの栄光ではありませんでした。
そこへ父なる神の声が響きます。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」(28c)。「再び」は「さらに」とも訳せる言葉。言い換えると「子よ。わたしは、あなたを地上に遣わし、あなたにわたしの心を語らせ、あなたに愛のわざをおこなわせてきた。わたしとあなたとが、世界に愛を注いだのだ。そんな愛が、私たちの栄光だ。今、さらに、わたしたちの栄光を現そう。さらに愛を注ごう。あなたの十字架によって。架けられるあなたの痛みと、架けるわたしの痛みをかみしめながら」とおっしゃったのでした。父と子が心をひとつに私たちを愛してくださっています。聖霊もまた。
【この世を支配する者】
けれども父と子の心は同時に喜びにも震えていました。「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。」(31)。「今」「今」と繰り返されるところに父と子のワクワクするような喜びが感じられるようです。私たちの弱さ、勇気のなさ、愛の鈍さ、受けた傷や痛み。そんなさまざまな破れを悪用して、私たちを支配し、私たちを神から遠ざけようとする者がいます。そんな力があります。この世の支配者がそれです。悪魔と呼んでもよいのでしょうが、その実態は罪と死の力。子は、父と心を一つに、そんな支配者を追い出します。いえ、もう追い出されました。十字架によって、罪とその結果をご自身に負い、復活によって死に勝利することによって。そして「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(32)が実現し、私たちは神の子とされました。そうされているのです。
【光はあなたがたの間に】
「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(35-36)の主イエスの言葉は、当時の人びとのためでもあり、私たちのためでもあります。
当時の人びとに対しては「わたしが十字架に架けられる日が迫っている。光であるわたしが、あなたがたの間にいる間に、光であるわたしを信じなさい」と語られました。そして、すでに神の子、光の子とされた私たちには「あなたがたは光の中を歩きなさい。父とわたしが追い出した罪と死の力は悪あがきをして、あなたがたを襲おうとする。だから、ますます光の子として歩きなさい。光であるわたしに結びつき、光の子である仲間たちとたがいに守り合うなら、闇に追いつかれることはない」と、励ましてくださっているのです。