2023年6月18日 第三主日父の日礼拝 説教「栄誉を与える神」 ヨハネの福音書12章36b-43節 |
「イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。」(36b)とあります。それは「イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」(37)からです。主イエスの背中が見えるようです。人びとを惜しみ、悲しみ、それゆえに、なおさら十字架への決意をかたく、去って行かれるそのお心には察してあまりあるものがあります。それを見つめる父のお心も。今日、父の日。主イエスの背中に現れた父と子の愛を聴き取りましょう。
【信じないために?】
ヨハネはここで、イザヤ書53 章を引用します。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」(ヨハネ12:38c)。イザヤ書53章は、人びとに受け入れられず、蔑まれ、見捨てられて殺される「主のしもべ」を語る箇所。主イエスの十字架の預言です。イザヤ53章にはこうもあります。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4)。来るべきメシア(主イエス)は神に罰せられた、と人びとは考えるのです。けれどもイザヤは続けます。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:5)。「主のしもべ」(イエス)の苦難は、すべての人の救いのためでした。罪と死の支配のもとにあった私たちが癒され、解き放たれるためだったのです。
ヨハネは次いでイザヤ書の別の箇所を引用します。「主は彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒やすこともないように。」(ヨハネ12:40)。これはイザヤ書6章から。イザヤ書6章は、イザヤが幻を見る箇所。自分の汚れを知ったイザヤの唇に燃えさかる炭が触れ、イザヤは神のことばを語るべく遣わされます。ところが神は奇妙なことをイザヤに言うのです。人びとに語れ、でも立ち返ることがないように、と。例によって言葉を補って言い替えてみます。「イザヤよ。わたし(神)はあなたを遣わす。人びとが立ち返るために。けれども覚悟せよ。彼らは立ち返ることがないだろう。あなたは、まるでわたし(神)が、彼らを頑なにしていると感じるだろう。それでも語り続けよ。いつか、彼らは知る。あなたが(イザヤ書6章で)見た神の栄光は、やがて来る『主のしもべ』(イエス)の栄光である。しかし、神であるイエスがこの世界に来ても、人びとは信じないだろう。人びとがあなた(イザヤ)の言葉を信じないように。そして、かえってイエスを十字架に架ける。しかし、イエスの苦難はむだになることはない。その死と復活によって人びとは救われる。神のいのちを生きるようになるのだ。だから、語り続けよ」と。
【神の大きな出来事】
神ご自身が「主は彼らの目を見えないようにされた。」(40a)と言うほどに、頑なな人びと、頑なな私たち。そんな私たちはどのようにして信仰に入ることができたのでしょうか。救いのお証しを聞くときにいつも気づかされることがあります。それは救いにいたる経緯は順序よく語られるのですが、最後の「信じた」という瞬間になにが起こったかは言葉にならない。「そして…信じました」と、ジャンプがあるのです。救いは出来事。私たちには完全に説明することも理解することもできない大きな、大きな出来事を神が起こしてくださったのです。
「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。」(42-43)とあります。ヨハネの残念さと痛みがにじみ出ているようです。ヨハネが感じているのは、神の痛み、神の残念さ。信じたけれども、公の信仰の告白に至らなかった人びとを惜しむ痛みです。けれども、神さまはそこでも出来事を起してくださったでしょう。これらの人びとの中からも、主イエスの十字架と復活の後、信仰を告白した人びとを起してくださったにちがいありません。今も、神は、私たちに続いて信仰を告白する人びとをなお、起こしてくださっています。父と子と聖霊なる神が、心をひとつに。