2023年8月6日 第一主日礼拝 説教「教会をたてる神」 ヨハネの福音書14章1-11節 |
今日も先週と同じ箇所。主イエスのあふれる愛をもう一度心に刻んでいただきましょう。
【信じなさい】
「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(1b)が胸に響きます。ただ神の存在を、主イエスの存在を信じなさい、というのではありません。「断腸の思いで、子を十字架に渡す父のあなたがたへの愛を信じなさい。父との断絶を覚悟して十字架に向かう、わたしのあなたがたへの愛を信じなさい。受け取りなさい。その愛に浸り、その愛に身を投じなさい。自分という土台から離れて、わたしに自分を投げ込みなさい」とイエスはおっしゃるのです。
「わたしを見た人は、父を見たのです。」(9c)もまた、神の心を語ります。三位一体といいますが、何よりも父と子がひとつなのは、その心において。私たちを愛し、私たちを惜しんで、私たちのためには何も惜しむことをしない、その心において一つなのです。私たちはそんな父と子を信じます。そんな父と子に自分をゆだねます。聖霊によって。
「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、」(9b)はピリポを責める言葉ではないでしょう。この後、この言葉をピリポは忘れなかったでしょう。この言葉によって、ピリポは主イエスと過ごした日々を何度も思い起こしたでしょう。そして主イエスの地上のご生涯でのすべての言葉とわざが、愛の注ぎであったことを、父と子が心ひとつに注いでくださった愛であることを、喜んだにちがいありません。ヨハネが、主イエスのピリポへの言葉をここに残したにのもそのためです。「こんなに長い間」、こんなに多く、深く、広い愛が、繰り返しピリポに、私たちに注がれてきたことを思い起こさせるためなのです。
【三位一体の、すなわち愛の神】
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」(10a)を図解しようとする人は必ず失敗します。父と子のどちらが内でそちらが外といった位置関係を語っているのではないからです。ここで語られているのは、相互に愛し合う父と子の愛です。神を知るためには、幾何学的な図解ではなく、動的なイメージのほうに分があります。神は方程式ではなく、生きておられる方だからです。いつものイメージをもう一度掲げます。

神は愛です。それは、例えば「神は大きい」というのとは、まったくちがいます。ひとりでは愛することも愛されることもできないから。三位一体の神はたがいに愛し合う神。心をひとつに愛のダンスを踊るように。子が父のうちにいるように、同時に父が子のうちにいるように、たがいに交わりながら愛し合うのです。
【その朝まで】
「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(3)は、再臨の約束。では、そのときまで、私たちはどのように生きるのでしょうか。(1)それは悩みのない生活ではありません。悩みがないふりをして生きるのでもありません。(2)それは悩みに押しつぶされる生活ではありません。(3)それは悩みの中で、三位一体の神と共に愛のダンスを踊る生活。悩むこの世に、神の愛を、神との愛を注ぎだす生活です。
【教会をたてる神】
このようなことを申し上げると、「そんなの無理です。私のような信仰のない、力もない者には」という声が聞こえてきます。もちろん、神さまはあなたに世界を救うヒーローになれとは言いません。この世の悩みの中で、この世に愛を注ぐのは、あなたではなく教会です。
さきほどは、愛し合う三位一体の姿のイメージ図を見ました。よくできたイメージ図ですけれども、やっぱり絵にすぎません。動かない絵です。生きている神の生きている姿は教会です。神はご自身の愛の目に見える姿を見せるために教会をたてました。私たちは「とんでもないです。神のかたちなんて。あまりにも力なく醜い私たちの教会が…」と言うでしょう。けれども父と子がすべてを与えてたててくださった教会です。力なく醜い私たちが、やっとの思いでゆるしあい、ぎくしゃくしながら受け入れ合い、失望しても何度でも立ち上がるその姿を、神はよしとしてくださるのです。ご自分のイメージとしてくださり、この世界の回復のモデルとしてくださっているのです。この私たちを!聖餐に移ります。