2023年9月17日 第三主日礼拝 説教「平安をあたえる神」 ヨハネの福音書14章25-31節 |
三週あいてのヨハネからのメッセージとなりました。今週からまた新約聖書の至聖所と呼ばれるヨハネ13章から17章、主イエスが十字架前夜に愛する弟子たちに語られた愛の言葉に聴き入ります。
【この世を支配する者】
「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。」(30ab)とあります。主イエスを十字架に架けたのは、ローマ兵であり、総督ピラトであり、ユダヤの祭司長たち、パリサイ人たちです。けれども彼らの背後には「この世を支配する者」という単数の存在がいます。サタン、悪の力です。この力が、人びとの恐れや歪んだ欲望といった弱さに付け込んで支配し、主イエスを十字架に架けたのです。子なる神であるイエスを滅ぼし、世界からいのちと希望と喜びを消しさること、それがサタンの狙いでした。
けれども主イエスは続けます。「彼はわたしに対して何もすることができません。」(30c)と。サタンは十字架で主イエスを滅ぼし、勝利したかのように見えますが、三日天下に過ぎません。主イエスは復活し、父のみもとに昇ったからです。主イエスはこの世を支配する者を滅ぼしました。肉を切らせて骨を断つように。ご自分の十字架によって勝利し、私たちを悪しき支配者から解き放ってくださったのです。今もこの世をサタンが支配しているのではないか、私たちはそんな風に思ってしまうことがあります。けれどもそれは事実ではありません。「彼はわたしに対して何もすることができません。」とおっしゃる主イエスは、サタンの悪しき手を私たちにが触れさせない、と誓ってくださるのです。
【私たちが生きるために】
そのために主イエスは「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26)と、聖霊を約束しました。「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」(28a)も同じ意味です。聖霊によって、主イエスは私たちと共におられるのです。
「わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせ」るというのは、忘れていることを思い出させるという以上のことです。聖霊は、主イエスのことばとわざを私たちの心とたましいに刻み、浸み込ませ、私たちを主イエスに似たものに成長させます。弱みにつけこまれ、仲間と分断させられ、神との間にくさびを打ち込まれていた私たちが、神に握られている手を握り返し、仲間と肩を組んで、弱さを補い合ういのちに生きるのです。主イエスに滅ぼされたサタンの残りかすに支配されることなく。「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。」(28)は「喜べ」という招き。「さあ、喜んでほしい。父と子と聖霊の交わりを。その交わりの愛があなたがたに向けられていることを。三位一体の神の全力の愛を注がれ、受け取っていることを、力の限り喜んでほしい、さあ」と。
【ほんとうの平安-ひるむな】
「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」(27abc)と聴くとき、思い出すのはルカ12章にある愚か者の譬え。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(19)と語る者のいのちはその夜にも取り去られる、というのです。私たちは食物を、収入を、健康を必要とします。けれども、それらを得たからといって、それがほんとうの平安ではありません。それらは世が与える平安です。
しかし主イエスが与える平安はほんとうの平安。持ち物に満足して座り込む平安ではなく、神さまと共に旅をし、旅を喜ぶ平安。私たちの生涯は遊牧民のようだと思います。神さまが与えてくださる良きものを喜びながらも、軽くにぎって、足取りも軽く従う生涯。手鍋下げても、という言葉がありますが、私は好きです。強いられてではなく、そうしなければ平安を得られないからでもなく、そうしたいから神さまと共に旅をする。そうして神さまと共に、仲間と共に、世界の破れをつくろい、世界に回復をもたらして生きる。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(27de)。さあ、主イエスと共に出かけましょう!置かれた場所に。その前にごいっしょに主イエスの食卓に与ります。