2023年12月10日 待降節第二主日礼拝 説教「とりなす神」 ヨハネの福音書17章6-19節 |
待降節第二主日、明野ではろうそくが、信愛ではLEDろうそくが2本ともりました。今年はさまざまな喜びとともに、痛みも覚えた年でした。しかしこのろうそくの灯りは、たとえ暗い夜であっても、そこに主イエスがおられることを証言しています。ますます明るさを増す灯りの中で、今日も御声を聴きます。
【とりなす神】
最後の晩餐での主イエスの祈りの二回目。弟子たちのために主イエスは祈ってくださいました。とりなしてくださいました。しかし「あなたが世から選び出して与えてくださった人たち」(6)、「あなたがわたしに下さった人たち」(9)とありますから、この祈りは、ペテロたちだけではなく、こうして集っている私たちのための祈りでもあります。私たちのために、私のために、あなたのために、主イエスがとりなしてくださったのです。
けれども、父と子は三位一体の神。わざわざ祈らなくても、その願いは一つで、同じであるはずです。でも、私には祈るイエスと耳を傾けるかたむける父の姿が、すぐそこに迫った十字架の悲痛に備えて、歯をくいしばって耐えようとしておられるように思えてなりません。私たちの救いという、父と子の同じ一つの望みをかみしめ、そのための十字架だと言い聞かせ合いながら。
【父と子の願い】
「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(15)。これが父と子の同じ一つの望みです。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」(14b)ともあります。私たちが天国に行くように、というのではありません。私たちが、この世にあって、それぞれが置かれた場所にあって、この世のものではない生き方をすること。損なわれ、破れてしまっているこの世界の回復のために生きること。世界の破れや歪みに呑み込まれないで、世の光・地の塩として、破れを繕って生きること。それが主イエスの、そして、父の望みであり、そのための十字架でした。
【赦しと和解】
「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。」(12)。滅びの子とは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。ユダ以外は滅びない。私たちは滅びない、だれも滅びない、そう主イエスは宣言なさいます。すでに私たちは赦されているのです。
けれども、神は、判決をくだした後は、被告人とかかわりを持たない裁判官のようではありません。赦しの後に、ほんとうの神と私たちの関係が始まります。ユダのことを思い、もし私が主イエスを裏切ったら滅びるのだろうか、と恐れないでください。たとえ私たちが不信仰になろうとも、いえ、そうなったときこそ、主イエスは私たちを守り、保ってくださるのです。そして単なる赦しではなく、私たちと和解して、私たちを神の家族として、いっしょに生きてくださいます。暮らしてくださいます。もうすでに。
「聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」(11c)とあります。教会に実現している和解は、三位一体に源を持ち、三位一体に似た愛の一致です。神との和解とともに人との和解もまた、すでに十字架の上でなしとげられているのです。主イエスは私たちを守り、保って、その和解を日々解き放ってくださいます。凍りついていた愛を解凍してくださっています。
【主イエスの喜び】
これらすべてのことを主イエスは喜んでしてくださいました。「わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。」(13)。十字架に架かろうとしている主イエスのうちには、それでも喜びがあふれていました。私たちのいのちある生き方を思って。満ちあふれる喜び!そんな喜びを私たちにあふれさせるためなら、何も惜しいと思わずに、クリスマスに人となられた主イエスを思い、今、ごいっしょに聖餐にあずかります。