2024年2月18日の説教要旨

2024年2月18日
受難節一主日礼拝
説教「突き刺された神」
ヨハネの福音書19章31-37節

このところの説教題はなんとも言えないものが続いています。「捕らえられた神」「むち打たれた神」「十字架に架けられた神」「渇く神」そして今朝は「突き刺された神」これらは、みな私たちの神がどのような神であるかを突きつけ、その愛へと招きます。

【折られなかった脚】

ヨハネによるならば十字架は安息日の前日。この日の日没からは安息日です。十字架に架けられた死体は汚れたものと考えられていたので、ユダヤ人たちは埋葬を急ぎました。そんなときには死期を早めるために、脚の骨を折ることが行われていたようです。

ところが「イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。」(33)とあります。他の二人はまだ息があり、脚を折られたのですが。ヨハネはこれについて「 これらのことが起こったのは、『彼の骨は、一つも折られることはない』とある聖書が成就するため」と記します。ここで言われている聖書は出エジプト記12章でしょう。過越の小羊の食し方について「これは一つの家の中で食べなければならない。あなたは家の外にその肉の一切れでも持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」(46)とある箇所を指していると考えられます。ヨハネはここで主イエスが過越の小羊であることを、その死によってすべての人を救うことを明らかにしようとしたのでした。

【救いの四つ顔 その4「解放」】

救いとは何か。そのとらえがたいほどの豊かさから、これまで「和解」「赦罪」「解放」と語ってきました。今朝は、「治癒(癒し)」。これは「きよめ(聖化)」と深いかかわりがあります。「和解」「赦罪」「解放」がなしとげられてとして、では私たち自身は変わることがないのでしょうか。罪を犯し続けるしかないのでしょうか。

聖書は、罪を病としても捉えています。これは特に、ギリシャ正教やロ シア正教で強調されるイメージです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(Ⅰペテロ 2:24)とあります。この見方は 十字架だけではなく、イエスの生涯全体を一連の救いのわざと考えます。 受肉(神が人となること)によって、無限の神が有限な人間の苦悩を身にまといました。そして罪に病む人間の存在を自分の中に引き受けて癒すのです。誕生から幼児期、青年期、壮年期そして死にいたるまでの全生涯 において、人がどっぷり漬かっている罪という病をイエスが引き受けました。イエスを受け入れる人を、毒に対する血清を受けた人になぞらえることができるでしょう。人はみな罪に冒され病んでいます。その病をイエスが癒して健やかにし、その健やかさに私たちを与らせるのです。

以上、新約聖書にある四つの主な贖いの側面を見てきました。どの見 方にも共通していることがあります。それは罪によって損なわれたもの を、神自身が犠牲を払って回復させること。その動機は愛であって、そ の愛は十字架の滅びをも厭わない愛であることです。神と人とを一つに するために十字架はどうしても必要だったのです。(「聖書は物語る 一年12回で聖書を読む本90-91ページ)

病人には自分の病がどのようにして生じたのかわかりません。癒されたときも、その癒しがどのようにして起こったのかわかりません。罪という病もまた、私たちの理解と許容量を超えた悲惨で、根深く、処置のしようがないものです。けれども患者にはわからなくても、医師はその病を知って治療します。主イエスは医者です。名医です。私たちのすべての病を、傷を、問題をすべてご存じで、その上で引き受けて癒してくださいました、癒してくださっています、癒し続けてくださいます。医師とのちがいは、医師が感染防護服やマスクに身を包んでいるのに対し、主イエスはご自分で罪という病を引き受けてくださったことです。そして私たちのために突き刺されてくださいました。そのお方が神であることを、突き刺された神であることを、私たちは深い痛みと、その奥から湧き上がるほのかな喜びをもって語り合います。語り合い続けます。いのち果てるまで、果てたならばなおさらに。

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