2024年2月16日 第3主日礼拝 説教「独り子なる主 使徒信条③」 ヨハネの福音書1章18節 |
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン
さて、信愛・天授ヶ岡・明野合同礼拝を感謝します。このたびは私の心筋梗塞とカテーテル手術のためにたいへんご心配をおかけしました。この通り、回復しつつあります。お祈りに感謝です。
【十字を切る】
キリスト教会の教理が確立していったのは4世紀から5世紀。特に「三位一体」と「キリストの神人二性」が核です。ギリシア正教やロシア正教といった正教会では、十字を切りますがそのときの手の形がこの二つの核を表しているとされます。写真をごらんください。
三位一体については、よくお話ししている通りです。右の図は、みなさん馴染んでくださって、信愛の災害支援の募金箱や教会の入り口の黒板にも使っていただいています。父は神、子も神、聖霊も神にして一つ。それだけではなく、愛し合う三位の神の愛のダンスに私たちも招かれています。
【キリストの神人二性】
キリストは真の神にして、真の人。この教理は451年のカルケドン公会議で「われわれの主イエス・キリストは唯一同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人性においても完全である」と宣言されました。キリストは神。それゆえ十字架で罪と死の力を滅ぼし、私たちを神と生きるいのちへと解き放ちました。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14-15)とあります。
そしてキリストは人。それゆえキリストはすべての人のすべての痛みを、傷を、罪を、罪の結果を担って、私たちに神のかたちを回復してくださるのです。
【真の神、真の人】
カルケドン会議が開催されたのは、正統教理から逸脱する異端が現れたことに対処するためでした。神の教理は神秘ですから、私たちが理性で完全に理解することはできません。異端の多くは理性的に神を説明し切ろうとして発生しました。けれども、神を知ることは、神のあわれみを知ること。神のあわれみを知る者は、理性を超えた神を知ることができます。使徒信条の「独り子」は、イエスというお方の本質を表します。すなわち、神であるお方が、人となって生まれ、愛し、死んで、復活されたのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネの福音書1:18)とあります。イエスはその愛で神を見せた、神なのでした。
カルケドンの結論は私たちの信仰を励まします。私たちはしばしば、痛みや傷に悲鳴をあげて、愛することを手放してしまいます。そして自分のような者はだめだとしゃがみ込みます。そんなとき、キリストは神であることを、たがいに思い出させ合いましょう。「だめだ」とうずくまるあなたを、キリストはすでに解き放ってくださっており、今も解き放ち続けておられるのだと。
また私たちは、しばしば自分が大切にされなかったと感じて悲しくなります。あるいは、孤独を味わい苦しみます。でも忘れてはなりません。キリストは人として生き抜かれました。十字架に辱められることさえもいとわず。このお方が、私たちのすべての切なさを経験して、自分のこととして知ってくださっています。それは私たちを癒すため。教父たちは口をそろえて「(キリストに)担われなかったものは癒されない」と語りました。しかしキリストは人となり、私たちのすべての問題を担ってくださったのです。だから私たちのどんな苦しみも癒されていきます。仲間を通して。時間がかかったとしても。