2024年12月8日待降節第二主日礼拝
説教「平和をつくる者の主」
マタイの福音書5章9節
マタイ5章から7章の山上の説教。その最初にある主イエスの八つの祝福、私たちを祝福する八つの言葉を順に聴いています。今日は第七の祝福、「 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(9)です。ここまで読んで来て、これらの祝福には一つのパターンがあることに気がつきます。①イエスが○○な者は幸いだと祝福する→②私たちにはそうは思えない→③けれどももっとも○○なのはイエスだと気づかされる→④イエスによって私たちのうちにも○○が始まっていることに目が開かれる、そんなパターンです。
今日の箇所もそうです。私たちは平和を願っています。争いがないことを願っているのですが、しばしば自分の正しさを主張して、あるいは相手を恐れ自分を守ろうとして、争ってしまうのです。
【平和をつくるイエス】
待降節も第二週となりました。ルカは、御使いと天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と賛美したことを記します。イエスは神。神がこの世界に平和をつくるために来てくださった、それがクリスマスです。さらにエペソ書はこう記します。「 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:14-16)と。ここでの二つのものとは、ユダヤ人と異邦人。彼らの間は敵意によって隔てられていて、とても平和など望めませんでした。けれども神であるイエスが、その敵意を滅ぼし、打ち壊しました。十字架によって。神が十字架に架けられることによって。イエスはすべての敵意をご自分に引き受けてくださり、終わりにしました。そして平和をつくってくださったのでした。
【平和をつくる私たち】
すべての敵意と申し上げました。かつて私たちは神を主と、王としませんでした。かえって神を自分の願いを聞くべきしもべとみなし、聞かれなければ、敵意を抱きました。私たちが王であるかのようにふるまったのです。私たちはまた周囲の人にも王のようにふるまってきました。二人の王は並び立つことができません。ですから互いの間に、しばしば敵意が生まれ、平和が破れたのでした。けれども、イエスによって私たちに新しいいのちが始まりました。新しいいのちは新しい生き方を生み出しました。それは主イエスの生き方。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す生き方です。
マーティン・ルーサー・キング牧師は語っています。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう…しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」と。
「あなたがたをも勝ち取る」、それは、今自分たちを差別し、暴力によって抑えつけようとしているあなたがたをも友として勝ち取り、平和を実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだ、というのです。ここにイエスが始めた新しい生き方があります。
けれども、と私たちは立ちどまってしまいます。それはキング牧師のような偉人には可能でも、自分には無理だ、と。しかし、本当でしょうか?あなたのうちにはいのちが始まっていないのでしょうか?主の祈りで「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈る私たちには、確かにイエスの生き方が始まっています。だからその生き方を、ますます生きるのです。自分のうちにあるいのちを信頼してさらに大胆に。
【国と国の間にも】
イエスが平和をつくるのは、神と人、人と人との間ばかりではありません。国と国の間にも戦争をとどめ、平和をつくります。敵意を引き受け、終わりにし、敵意を持つ者を癒す私たちを通して。苦しむ能力、苦しみに耐える能力によって。長い時間をかけても。