2026年3月15日

2026年3月15日 
受難節第四主日礼拝
説教「私たちの主」
マタイの福音書6章5-15節

今週から、聖書は「主の祈り」に入ります。主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださった、つまり神さまが望まれる祈りを聴き取りましょう。

【神さまの望み】

共に暮らしている人との会話は、その人との関係が表れます。祈りは神との会話。ですから例えば「家内安全商売繁盛」といった祈りばかりしているとしたら、その人と神さまとの関係はご利益(りやく)によって結ばれているということになります。あるいは困ったときだけ祈るとしたら、困っていないときには神さまと共に生きていない、ということになります。ですから主イエスは私たちに主の祈りを教えてくださいました。神さまがどのような関係を望んでおられるかを、教えてくださったのです。

【あなたがたの父】

「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」(9a)は先立つ「偽善者たちのように祈るな」(5a)「異邦人のように祈るな」(7a)を受けています。前回聴いた箇所ですが、偽善者のように人に聞かせるために祈るな、また、異邦人のようにくどくど「ことば数が多いことで聞かれると思って」(7 b)祈るな、と。私たちも「祈りが足りなかったら聞かれない」と勘違いすることがあります。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられる」(8bc)ことを忘れてしまうからです。

あなたがたの父!イエスが教えてくださった神さまの望まれる関係、いえすでに神さまが実現してくださっている関係は、父と子の関係。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(8b)とあります。父は、子どものために本当に必要なものを、子どもが願ったからではなく、子どもが願う前に与えます。子どもにとって、良くない者なら、子どもがどんなに願っても与えません。

ですから、私たちは神さまがそんな父であることをこころとたましいに刻むのです。忘れがちな私たちですから、毎日、「天にましますわれらの父よ」と呼び掛けて、神さまが私たちの父であることを、たましいの習慣とするのです。

【天にましますわれらの父よ】

だから「天にましますわれらの父よ」は、主の祈りの最も大切な一言です。この一言があるから、私たちは、異邦人のように祈りません。神さまが父であることを知っているからです。もし主の祈りの続きが出て来なかったとしても、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができれば、それで十分。それほどの一言を主イエスは与えてくださいました。

けれども、私たちは思います。「自分は、心から、『天にましますわれらの父よ』と祈っているだろうか。ほんとうに、必要のすべてを祈らずとも与えてくださる父よ、と祈っているだろうか。」と。そして、自分の祈りが、異邦人のような、くどくどした言葉数の多い祈りであることに気づかされ、うなだれるのです。

【アバ、父よ】

しかし、ここによい知らせがあります。主イエスは十字架の前夜、ゲッセマネで「アバ、父よ」と祈りました。当時のユダヤ人たちは神に向かって「父よ」と祈ることはあったようですが、「アバ、父よ」と祈ったのは主イエスだけ。「アバ」は破裂音。まだ幼くて、発音がうまくできない子どもたちにも使える、父を表す言葉。「お父ちゃん」あたりになります。パウロも「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」(ローマ 8:15-16) と記します。つまり、主イエスが人となり、十字架に架かって、復活したのは、私たちが「アバ、父よ」と回らぬ舌で、心から呼ぶことができるため。私たちが心から「天にましますわれらの父よ」と呼ぶことができるためだったのです。

ですから、私たちは、心から「天にましますわれらの父よ」と今日も祈ります。1月の新年聖会で藤本満先生が「ヤコブは自分の敗北をささげた」と語ってくださいました。私たちもまた、神を父として信頼できない敗北、異邦人のようにくどくど頼みごとをしてしまう敗北をささげます。神に対する私たちのそんな疎遠な思いを、担って十字架で処置してくださったからです。子としてくださったからです。今日もそんな喜びを私たちのこころとたましいに刻んでくださったからです。

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