2026年5月17日の説教要旨

2026年5月17日 
第三主日礼拝
説教「試みに勝つ主」
マタイの福音書6章13節

今日は、主イエスが教えてくださった、主の祈りの中の最後の祈りから聴きます。マタイでは「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」(6:13)。私たちが先ほど祈った主の祈りでは「我らをこころみにあわせず、悪より救い出〔いだ〕したまえ。」です。

【こころみにあわせず】

私は長い間この箇所を誤解していました。「我らをこころみにあわせず」とは、「毎日を平穏無事に過ごさせてください。私たちを苦しい目に遭わせないでください」だと。
 けれどもどこか、違和感がありました。神さまはこの世界に愛を注ぎ、私たちを神のいのちに生きるものとしてくださった。ご自身と共に、この世界に愛を注ぐ、神の友としてくださった。それなのに、私たちが自分たちの平穏無事だけを祈るとするなら、それはまるで、どこかの神社で無病息災や家内安全を願うことと変わらないのではないか、と感じていました。祈ると言えば聞こえはいい。しかし実際には、「自分の願う通りにしてください」と神に命じているだけではないか、と。

 しかし、だんだんわかってきました。主の祈りで、斥けるようにと祈るこころみとは、単に、平穏無事を妨げるもののことではない。問題は、私たちと神さまとの交わりを妨げるもの。たとえば、自然災害や病気やケガ、経済的な行き詰まり。これらが、私たちに「ほんとうに神などいるのだろうか」「神を信じたのは一時の気の迷いではなかっただろうか」と思わせるとき、それが試みとなる。神さまとの交わりを引き裂こうとするものとなる。だから、ほんとうのこころみは、苦しみや欠乏ではない。ほんとうのこころみは私たちと神さまの交わりを引き裂こうとするもの。苦しみの中で、私たちを支える神さまとの交わり。ときには、あえて苦しみを選び取らせるほどに深い、神さまとの交わりを。

教会の中にもそんなこころみがある。どれほど多くの人が、信仰者どうしの交わりに傷ついて教会を去っていくことでしょうか。「教会に行くとあんな嫌な思い、つらい思いを味わうから行きたくない」と。前回は赦し合う教会の交わりを主イエスが造り出してくださった、と語った。がんばって教会に来なさい、と言っているのではありません。そうではなくて、私たちがすでに神のいのちに生きるものとされていることを思い出し、時間がかかっても関係を修復し、たがいに喜び合うことの回復の過程に身を置こう、と言っているのです。主イエスの癒しの中に。どこにでも届く主イエスの癒しの中に。

【悪より救い出〔いだ〕したまえ】

「悪より救い出したまえ」についても、私は誤解していました。「私が悪いことをしてしまわないように」だと、思っていました。けれども、この「悪」は、単なる私たちのうちにある「罪」や「悪しき心」ではありません。アダムとエバを神から引き離そうとしたあのヘビのような悪の力のことです。この力は「さまざまな機会を用いて、神と共に生きるなんて、束縛だ。神から自由になって思い通りに生きたらいい」とささやくのです。そんな誘惑の前では、弱い私はひとたまりもありません。十字架前夜のペテロのように。

【試みに勝つ主】

だから主イエスは人となってくださいました。そして「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るように教えてくださいました。主イエスご自身もゲッセマネで「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈りました。人となられたゆえに、主イエスは苦しみました。肉体の苦しみよりも、父との交わりを手放すようにという試みによって。そして、十字架によって悪の力を滅ぼしてくださったのでした。私たちをご自身から遠ざける悪の力を決して許すことはなさらないからです。「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14b-15)とある通りです。こうして主イエスは悪の力に打ち勝たれました。その勝利に私たちをその勝利に与らせてくださっています。

ですから私たちが「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのは、「できたら」「なるべく」「どうせ人間だけど」そうして下さい、と祈るのではありません。神さまとの交わりに抱きしめられている私たちが「この喜びの中に私たちをおらせてください。あなたが滅ぼされた悪の力の記憶が私たちを苦しめるとき、あなたの勝利が、私たちの勝利でもあることを思い出させてください。」なのです。

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