| 2026年9月27日 第四主日礼拝 説教「心の主」 マタイの福音書8章1-4節 |
「山上の説教」を終えました。「イエスが山から下りて来られると、」(1)とあります。主イエスは山を下りました。8章と9章には、主イエスの「みわざ」が語られています。5章から7章の主イエスの「みことば」と合わせて、主イエスの宣教の全体の姿が浮かびあがるのです。目撃したのは「大勢の群衆がイエスに従った。」(1)とある人びと。主イエスに従おうとする私たちにも、語られているのです。
【ツァラアト】
「ツァラアト」はかつて「らい病」と訳されていた語。けれどもその症状や家なども「ツァラアト」になることから、「らい病」とはまったく異なる、現代には存在しない皮膚の疾患であることが明らかになりました。翻訳しようもないので「ツァラアト」と表記されています。はっきりしていることは、この病気にかかった者は汚れた者とみなされ、神の民イスラエルの祭儀、つまり神への礼拝に連なることができなかった、ということ。礼拝に、そして生活において人びとから隔離され、社会との接点を絶たれてしまうという苦しみの中にあった。その人が、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(2)と願ったのでした。
この「ひれ伏し」は、マタイが好んで用いた言葉。たとえば2章で、東の方からの博士たちが、「幼子を見、ひれ伏して礼拝した」(11)とあります。このツァラアトの人は、主イエスに従い、主イエスを礼拝しました。その願いは、ただ病気を治して欲しい、というのではありません。神を礼拝する神の民に加えられ、仲間と共に主イエスに従っていくこと。仲間と共に世界の破れの回復に身を投じることでした。
【主イエスの心】
「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」(2b) は「もし、それがよいとお考えんなら、私をいやしてください、そうでなかったら、それは仕方ありません」ということではありません。問題となっているのは主イエスの心。主イエスの願いです。主イエスの心はどこにあったか。すべての人がご自身に従う者となること。そしてとりわけ、このツァラアトの人のように、主イエスに従う者たちが、共に礼拝をささげ、共に世界の愛の破れに愛を注ぎ出すこと。だからこのツァラアトの人の心は、主イエスに一致していました。ですから主イエスはおっしゃる。「わたしの心だ。きよくなれ」(3)と。主イエスは「そうだ。それがわたしの心だ。あなたの願いこそ、わたしの願いだ。きよくなれ。礼拝を妨げ、愛のわざから遠ざけるものどもからあなたを解き放ってあげよう。生きよ。愛せよ。さあ、行こう。」と。
私たちは病や事故、災害の中にあって癒しや守りを祈ります。それは当然のことです。また神さまも祈るまでもなく最善以下のことはなさいません。けれども、この聖書の箇所は、信仰が足りなければ癒されない、とか、祈りが足りなければ癒されない、と言ったことを語っているのではありません。
【私たちの心も】
私たちの心もまた主イエスの心とひとつです。主イエスに従い、主イエスと父なる神を礼拝し、主イエスと共に世界の三つの愛の破れ、神と人との、人と人との、人と世界との、愛の破れを繕うために身を投じたいのです。「自分はまだまだそこまでは…」とおっしゃる方がいるでしょうか。そんなときは、私たちがだれであるかを思い出させ合います。私たちは、主イエスの十字架によって、私たちを神から遠ざけるすべて、罪の原因と罪そのものと罪の結果から解き放たれました。そして主イエスの復活によって、新しい、永遠の、愛のいのちを与えられました。すでに私たちの本質は、主イエスに従う弟子であり、主イエスを礼拝する共同体、世界の破れに身を投じる共同体の一員です。そもそも「自分は、ここにふさわしいのだろうか」という疑問は、共同体の成員以外には生まれないのですから。
「そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」(4d) 、このささげ物が、つまるところは、神と人への愛であることを私たちは知っています。
