2026年8月16日の説教要旨

2026年8月16日 
第三主日礼拝
説教「入らせる主」
マタイの福音書7章13-14節

このところ、一般にもよく知られているが、本来の意味とは異なる用い方をされている聖書の箇所が続いています。今日の「狭い門から入りなさい。」(13a)はその最たるものでしょう。 入学試験や就職試験で志願者数の倍率が高いときなどに「狭き門」といった使われ方がよくされます。けれども、それだと、この門はだれにでもはっきりと見えていることになります。見えているのだけれども入れない、定員が決まっているから。けれどもイエスさまの門は「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(14) とあります。この門はもともと人目にとまらない小さな門なのです。多くの人が押し寄せることなどない門なのです。

【小さな門】

また「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。」(14a)も誤解されている箇所。「二つの道があるときには、より険しく、より苦労の多い方を選べ。」そのような処世訓として受け取られることが多いのです。けれども、ここで主イエスがおっしゃっているのは、単に苦労をすることではありません。主イエスと共に生きること、主イエスと共に歩くことです。ほとんどの人びとが見向きもしない父なる神を信じ、主イエスを愛して洗礼を受け、聖霊によって励まされて、礼拝に集う。それが狭い道を通って、小さな門をくぐること。まさに今私たちがしていることです。そう、私たちは小さな門から入ったひとりひとりなのです。ですから主イエスは「さあ、わたしと共に歩け。わたしの与えるいのちを生きよ。それは人が見向きもしない狭い道であり小さな門。あなたはこの道と門を見出すことができた。わたしが招いたから。だからこの道を歩め。この門のうちを歩み続けなさい。」とおっしゃるのです。

【細い道】

細い道、主イエスのいのちの生き方とはどんな生き方なのか。それは、ここまでの山上の説教で語られてきた生き方です。

「殺すな」という律法に対して、主イエスは「まずあなたの(自分を憎んでいる)兄弟と仲直りをしなさい。」(5:21-24)と、積極的に人を愛し、敵対する者との和解へと招かれました。それは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:44)というまでに。そんな細い道、小さな門をどうしたら、と思う私たちですが、もうその歩みは始まっています。主イエスの十字架と復活によって。そして日に日にそんな歩みを妨げる、心の歪みや痛みを癒されつつある私たち。神のみ言葉の湯治を仲間との愛のリハビリによって。

「地上に宝を蓄えるのはやめなさい…自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(6:19-20) もまた、細い道、小さな門の生き方です。自分の善行や正しさにより頼んで生きるのではなく、天の父なる神を見つめ、その愛により頼んで生きること。

「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。」(6:25b)もまた。細い道、小さな門の生き方です。天の父なる神は私たちを愛し、私たちの必要を満たしてくださいます。そればかりか、自分のおもいわずらいを手放して、ご自分により頼む私たちを用いて、世界の愛の破れを回復さえさせてくださいます。私たちの願いをはるかに超えて。

【主イエスの道】

細い道、小さな門は、主イエスが通られた道であり、門。ただ天の父により頼む主イエスの道の果てには十字架が待っていました。けれども、この道にはさらに復活があり、その結果として私たちに聖霊によっていのちが注がれることになりました。主イエスのいのち、永遠のいのち、新しい、愛のいのちが。繰り返しになりますが、私たちはもうこの細い道、小さな門から入ったひとりひとり。そしてますます愛のいのちに満たされ続けているひとりひとりです。そうしてくださったのは、私たちを放っておくことができなかった、父と子と聖霊の愛であることを今日も思い出させ合い、励まし合うことができることを喜びます。

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