| 2026年6月28日 第四主日礼拝 説教「目を澄ませる主」 マタイの福音書6章22-24節 今日も主イエスの恵みへの招きを聴きます。主が私たちの心と耳を開いてくださいますように。 【 健やかな目】 「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなります」(22)とあります。この箇所、私は長い間よくわかりませんでした。しばしば、こんなことを申しますが、やはりそれには理由があったと思うのです。それは聖書の大きな物語、神の大きな物語がわかっていなかったからだと思います。神さまは世界の愛の破れを嘆き、アブラハムを、モーセを、預言者たちを通して、世界をご自分に立ち返らせようとなさってきました。そしてついに御子イエスを送って、私たちを神の子としてくださいました。もう、すでに。この物語を頭に置いて読むなら、聖書が開かれていくのです。 そのように読むなら、この個所は、すでに、神の子とされた私たちの幸いを祝福する箇所。私たちは主イエスに心を向け、目を向けます。すると主イエスの恵み、愛とあわれみが、私たちに注がれます。主イエスに心を向けるなら、主イエスの恵みが私たちにあふれるのです。肉体の、この目が、健やかかどうかとは関係ありません。主イエスに心が向いているかどうか、それが問題です。 反対に「目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」(23) は、主イエスに心を向けないなら、私たちは神の恵みを、愛とあわれみを受け取ることができません。そして、神と人を喜ぶことができず、愛なき思いと言葉と行いの闇にしゃがみこんでいることになります。 【目を澄ませるのは主イエス】 よくある誤解は、この個所を「あなたの目を健やかにしなさい」という命令として読んでしまうことです。そうすると「目を健やかにするためには、まず心を健やかにしなければならない」と思いがちです。私たちはいつも、なにかをしなければならない、と思っているところがあるから。だから、聖書を読むと、ついつい自分に足りないところを探して、そこを補おうとするのです。けれども問題は、私たちには、自分の心を健やかにすることができないことにあります。それだからこそ、主イエスは私たちのためにこの世に来てくださり、十字架に架かって、復活してくださいました。私たちの愛なき思いと言葉と行い。その原因を負って、愛のなさを負って、愛のなさの結果を負って。すべてを負って。 「目を健やかにする」のは主イエスのわざ。主イエスのしてくださったすべてのことに目を向けさせること。主イエスに目を向けさせることです。主イエスに目を向けるとき、心を向けるとき、主イエスが心を健やかにしてくださいます。日々、ますます健やかにしてくださるのです。 【どちらの主人に】 「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(24) は、一見すると唐突に見えます。けれども、ここでは、神と富のどちらに目を向けるかが問われているのです。主イエスに目を向けているか、どうか。ここにつながりがあります。 神に仕えるとは、一心に神を見つめることです。神の恵みとあわれみを見つめ、それだけを拠り所とすることです。そのとき、私たちは神のいのちの注ぎを受け、神のいのちを注ぎ出して生きています。十字架と復活の主イエスのいのち、愛のいのちを。 富に仕えるとは、神から目をそらすことです。神から目をそらすとき、私たちの目に入るのは自分。自分が何をしたか、自分が何を持っているのか、そこを見つめ、神のいのちを手放してしまうのです。それはとんでもない損失です。私たちにとって、そして神さまにとって。世界の愛の破れをつくろうことに背を向け、世界の愛の破れを広げることになってしまうのですから。 神に仕えることは、持っているお金を献げて無一文になることではありません。レプタ二つのやもめを「この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。」(ルカ21:3)と喜ばれた主イエスは、やもめの心を喜ばれました。その目が一心に神を見つめていることを。翌日、やもめが献金したかどうかというようなことはかかわりなく、神に向かってそのとき解き放たれた心を喜ばれました。私たちの心もまた主イエスの喜びです。主イエスを見つめる私たちだからです。 第四主日礼拝 説教「目を澄ませる主」 マタイの福音書6章22-24節 |
今日も主イエスの恵みへの招きを聴きます。主が私たちの心と耳を開いてくださいますように。
【 健やかな目】
「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなります」(22)とあります。この箇所、私は長い間よくわかりませんでした。しばしば、こんなことを申しますが、やはりそれには理由があったと思うのです。それは聖書の大きな物語、神の大きな物語がわかっていなかったからだと思います。神さまは世界の愛の破れを嘆き、アブラハムを、モーセを、預言者たちを通して、世界をご自分に立ち返らせようとなさってきました。そしてついに御子イエスを送って、私たちを神の子としてくださいました。もう、すでに。この物語を頭に置いて読むなら、聖書が開かれていくのです。
そのように読むなら、この個所は、すでに、神の子とされた私たちの幸いを祝福する箇所。私たちは主イエスに心を向け、目を向けます。すると主イエスの恵み、愛とあわれみが、私たちに注がれます。主イエスに心を向けるなら、主イエスの恵みが私たちにあふれるのです。肉体の、この目が、健やかかどうかとは関係ありません。主イエスに心が向いているかどうか、それが問題です。
反対に「目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」(23) は、主イエスに心を向けないなら、私たちは神の恵みを、愛とあわれみを受け取ることができません。そして、神と人を喜ぶことができず、愛なき思いと言葉と行いの闇にしゃがみこんでいることになります。
【目を澄ませるのは主イエス】
よくある誤解は、この個所を「あなたの目を健やかにしなさい」という命令として読んでしまうことです。そうすると「目を健やかにするためには、まず心を健やかにしなければならない」と思いがちです。私たちはいつも、なにかをしなければならない、と思っているところがあるから。だから、聖書を読むと、ついつい自分に足りないところを探して、そこを補おうとするのです。けれども問題は、私たちには、自分の心を健やかにすることができないことにあります。それだからこそ、主イエスは私たちのためにこの世に来てくださり、十字架に架かって、復活してくださいました。私たちの愛なき思いと言葉と行い。その原因を負って、愛のなさを負って、愛のなさの結果を負って。すべてを負って。
「目を健やかにする」のは主イエスのわざ。主イエスのしてくださったすべてのことに目を向けさせること。主イエスに目を向けさせることです。主イエスに目を向けるとき、心を向けるとき、主イエスが心を健やかにしてくださいます。日々、ますます健やかにしてくださるのです。
【どちらの主人に】
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(24) は、一見すると唐突に見えます。けれども、ここでは、神と富のどちらに目を向けるかが問われているのです。主イエスに目を向けているか、どうか。ここにつながりがあります。
神に仕えるとは、一心に神を見つめることです。神の恵みとあわれみを見つめ、それだけを拠り所とすることです。そのとき、私たちは神のいのちの注ぎを受け、神のいのちを注ぎ出して生きています。十字架と復活の主イエスのいのち、愛のいのちを。
富に仕えるとは、神から目をそらすことです。神から目をそらすとき、私たちの目に入るのは自分。自分が何をしたか、自分が何を持っているのか、そこを見つめ、神のいのちを手放してしまうのです。それはとんでもない損失です。私たちにとって、そして神さまにとって。世界の愛の破れをつくろうことに背を向け、世界の愛の破れを広げることになってしまうのですから。
神に仕えることは、持っているお金を献げて無一文になることではありません。レプタ二つのやもめを「この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。」(ルカ21:3)と喜ばれた主イエスは、やもめの心を喜ばれました。その目が一心に神を見つめていることを。翌日、やもめが献金したかどうかというようなことはかかわりなく、神に向かってそのとき解き放たれた心を喜ばれました。私たちの心もまた主イエスの喜びです。主イエスを見つめる私たちだからです。
