| 2026年6月14日 第二主日礼拝 説教「喜び祝う主」 マタイの福音書6章16-18節 |
6章1節に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」とあります。続いて主イエスは三つの善行を語られました。施し(2-4)祈り(5-15)断食(16-18)。今日は断食について聴きます。
【善行?】
この個所に違和感を感じる方は少なくないと思います。私もそうでした。私たちが神に受け入れられたのは、善行によるのではなく、ただ神の恵みによるからです。けれども私たちは5章で、イエスが「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(5:20)とおっしゃったのを聴きました。それは、律法学者やパリサイ人たちよりもがんばって、律法を行うことではありません。神の子とされた私たちが父の愛を注がれ、注がれた愛があふれ出す、そんな存在にされていることの祝福でした。
ですから主イエスの言う善行は、行わなければならないのではなく、思わず行わずにはいられないのです。新しいいのちに生きる私たちにとって。
【施しと祈り】
施しもまた、神と共に生きる私たちの喜びの表現です。施したら自分が貧しくなるという不安からも、人の評価を気にする恐れからも解き放たれて、ただ神を喜び、神と共に世界の破れを繕うために、気づけば無我夢中で、自分と自分のお預かりしているものを差し出しているのです。
祈りもまた、神さまに自分の願いを叶えるように、しつこく命令することではありません。父なる神が、私たちのすべての必要、とりわけ神のいのちを与えてくださっていることを喜び、なお増し加えてくださることを願い、そんな互いを赦し合う共同体をなお建て上げてくださることを望み、すでに十字架の上で悪の力が打ち砕かれていることを忘れず、すでに今ここに始まっているその恵みを生きることを欲し、神のご支配の中で、神と共に働くことを乞うのです。多くの言葉によって神を動かそうとするのが祈りではありません。祈るうちに私たちが変えられていくのです。神の愛に抱きしめられ、神の愛に満たされ、神の愛によって世界の破れへと押し出されてゆくのです。
【断食とは】
では断食とは?よくある誤解は、霊性を鍛え、霊的な人になるために断食をするというもの。つまり、修行のようなイメージです。けれども旧約聖書を読めば、すぐに断食は悲しみと嘆きの表現であることがわかります。自分が神の心を痛めている罪人だと気づいて、心から悲しみ、嘆き、悔い改めることがその本質です。バテシバ事件の時のダビデが思い出されます。
私たちが神の心を痛めていることを悲しむとき、神さまは、その痛みにおいて私たちに出会ってくださいます。ほかのどこでよりも深く。よく申し上げる森有正の「人にはだれにも打ち明けることのできない心の一隅がある。そこにおいて神はあなたに会う」という意味の言葉の通りです。
私たちにお会いになったなら、神は私たちの痛みを負い、その原因となっている罪と罪の原因と罪の影響を負ってくださいます。そして世界の破れに愛を注ぐようにと押し出すのです。
【神に心を向けて】
ですから「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。」(16ab)は、まったく断食の意味がわかっていないのです。神に心を向けて癒されるのではなく、人に心を向けて敬虔な人だと称賛されようとするのです。「まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」(16c)と、仮に称賛されたとしても、それだけのことです。
主イエスは、そうではなくて「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」(17)とおっしゃいます。これは祭りを喜び祝うための身づくろいを指しています。
すでに主イエスは来てくださり、私たちの罪と私たちを苦しめる罪の力、悪の力を滅ぼしてくださいました。祭りはすでに始まっています。だから、私たちは罪を悲しみながらも、主イエスが与えてくださった新しいいのちを喜び祝います。それは主イエスが私たちを喜び祝っていてくださるからです。
