2026年6月21日の説教要旨

2026年6月21日 
第三主日礼拝
説教「心の主」
マタイの福音書6章19-21節

主イエスは、なおも新しいいのちの生き方を指し示されます。今日は、地上に宝を蓄えない生き方。聴くうちに私たちの喜びがあふれますように。

【天に宝を】

「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」(19)とあります。宝とは、私たちが所有している財産のこと。そんな宝は、確かに壊れたり、盗まれたりするものです。ですから主イエスは「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」(20)とおっしゃいます。明らかに地上に蓄えることができる宝とはちがう宝について語っておられるのです。

この「天に宝を蓄えなさい」というイエスのお言葉は、よく誤解されることがあります。それはイエスが「善い行い、例えば、愛のわざを積むことによって、天に宝を積むことになり、そうすれば神さまから報いを受けることができる」そのように教えられたという誤解です。けれども主イエスは「神さまからの報い」などと一言も言っていません。そうではなくて「天に宝を積むこと」が幸いなのです。

ですから主イエスの教えは、私たちがすでに読んだ「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)と軌を一にしています。「心の貧しい者」、すなわち、自分の心に何一つ豊かさを持っていない、拠り頼むべき富や宝を持っていない者、ただ神の恵み、あわれみを喜び、その中に生きる者、つまり私たちです。だから私たちは、実は「地上に宝を蓄えるのはやめなさい」と言われなくても、もとより地上に宝を蓄えることができない者たち。その私たちが、もし「地上に富を蓄えた」と思うならそれは思い違い。目に見える財産はもちろん、自分の善行も、愛の行いも、信仰さえも、私たちが拠り頼めるものではありません。私たちが拠り頼むことができるものは、ただ一つ「神さまの恵み、神さまのあわれみ」だけです。「神さまの恵み、神さまのあわれみ」に拠り頼むことが、天に宝を蓄えることであり、そうする者たち、つまり神の恵みに身をゆだねた私たちが、幸いな「天の御国はその人たちのもの」と呼ばれる人びとなのです。

【十字架と復活によって】

私たちは「天に宝を蓄えなさい」と聞くと、そのために、何かをしなければならない、と思ってしまいます。けれども、それはまったくの見当はずれ。天に宝を積むとは、神さまの恵み、神さまのあわれみに拠り頼むこと、神さまに心を開くことです。私たちがすでに神の子とされていることを受け入れ、神の子としてのありのままに振る舞い、生きること。私たちに与えられているいのちのままに。このいのちは、主イエスの十字架と復活によって私たちのものとなりました。主イエスが、私たちを神さまから遠ざける罪の原因と罪そのものと罪の影響を負ってくださったことによって。また、十字架で悪の力を滅ぼして愛する自由に解き放ってくださったことによって。さらに主イエスが、私たちに与えたいのちを増し加え、死の向こう側にまで続く神さまとの交わり、仲間との交わりを祝してくださることによって。そればかりか、注がれ続ける神の愛によって、私たちを仲間と共に世界の愛の破れに向かって押し出し、神さまと共にその破れを繕うものとすることによって。

【心はどこに】

そして主イエスは「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(21)と宣言されました。これは私たちへの問いかけでもあります。「あなたの心はどこにあるのか。あなたは、地上に、すなわちあなたの中に、拠り頼めるものを探すのだろうか。見つかることはないのに。それともあなたは、天に、すなわちわたしに拠り頼むのだろうか。恵みとあわれみを惜しみなく、限りなく注ぐわたしに。」と。

「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」、これはまた、私たちへの招きでもあります。「さあ、あなたはわたしを選べ。いのちを選べ。あなたの中に、拠り頼むことができるものを探すのではなく。自分の行い、自分の信仰をみつめ、心を自分に置いて、これで十分だろうか、これで足りているだろうか、と立ち止まるのではなく。わたしの恵みに、わたしのあわれみに、あなたの心を向けなさい。わたしにあなたの心を置きなさい。わたしが、今、そうさせてあげよう。」と。

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