| 2026年5月24日 第四主日礼拝 説教「祈らせる主」 マタイの福音書6章5-15節 |
今日は、主イエスが教えてくださった主の祈りの最終回。ここまでを振り返ります。主の祈りはマタイ5章から7章の「山上の説教」の真ん中にあって、主の祈りこそ「山上の説教」の中心です。ですから今日は、「山上の説教」全体の中で主の祈りを読み、祈ります。
【幸いの宣言 5章3-12節】
山上の説教は「八つの幸いの宣言」から始まります。「…な者は幸いです」と主イエスは、すでに私が幸いであることを宣言されました。最初の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(5:3)。「心の貧しい者」 とは、「自分の中に、誇ることができる豊かさが何一つない者」。そういう人こそ「天の御国、つまり、神の
国、神のご支配の下」で生きます。「神のご支配が実現し、そのご支配の中で、神と共に生き、神と共に働く」ことを喜ぶのです。だから私たちは主の祈りを祈ります。
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
(神のご支配が実現し、その中で、神と共に生き、神と共に働かせてください)
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
(あなたがすべての必要、とりわけ神のいのちを与えてくださっている。増し加えたまえ。)
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
(あなたの赦しによって、赦し合う共同体をなお建て上げてください。)
我らをこころみにあわせず、
悪より救い出〔いだ〕したまえ。
(あなたから私たちを遠ざける悪の力。あなたがすでに砕いてくださいました。その恵みを生きさせてください。)
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。
(すでに、いまここに、もう。)
【さらにまされる義】
すでに「地の塩」(5:13)「世の光」( 5:14) である私たち。「律法や預言者(神と共に歩く歩き方)」の成就(5:17)、「律法学者やパリサイ人にまされる義」(5:20)は、すでに私たちのうちにあります。主イエスの十字架と復活によって。私たちを抱きしめて離さない神の愛によって。そして、ますます律法の心である愛へと進ませます。進ませています。
だから主イエスは「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5:44) とおっしゃいます。私たちの愛は、神から注がれ、私たちからあふれ出します。「敵、すなわち『我らに罪をおかす者』も隣人なのだ。あなたと同じように、痛みを抱え、その痛みをどうしたらよいかわからないで困っている隣人なのだ。わたしの愛に癒されたあなたが、その愛を伝えてくれないか。注いでくれないか。彼が癒され、世界が癒されるために」と、主イエスは招いておられます。
【祈るときに起こること】
「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」(6:7a)「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(6:8b) とあります。 私たちは思います。では、なぜ祈るのか。祈っても祈らなくても同じではないか、と。
私たちが祈る理由は、私たちの弱さにあります。主イエスの十字架と復活によって、罪の原因と罪そのものと罪の結果や影響から解き放たれている私たち。けれども、しばしばそのことを忘れしゃがみ込んでしまう。世界の破れを繕うために、それぞれの場所に置かれているのだけれども、手ごわい現実に、とても自分には無理だと立ち尽くしてしまう。古傷が痛んで、愛するべき家族を、隣人を愛せないで涙する。そんな私たちに、主イエスは主の祈りを教えてくださいました。それは、多くの祈りによって神を動かすためではなく、祈りのうちに、神の愛に抱きしめられ、神の愛に満たされ、神の愛によって立ち上がり、歩き出すためです。世界の破れへと押し出されていくためです。まさに主イエスご自身がゲッセマネで祈られたときに起こったこと。それが私たちにも起こるのです。
