2026年9月6日 第一主日礼拝
説教「良い実の主」
マタイの福音書7章15-23節
「狭い門から入れ」と主イエスは教えます。私たちの前には二つの道がある。ひとつはイエスと共に歩く生き方。人目につかず多くの人が見向きもしない道です。もうひとつは、多くの人が選ぶ道。イエスと別れて歩く道です。主イエスは狭い門を通り、小さな道を選び、選び続けるようにと私たちを招きます。そこには愛のいのち、永遠のいのち、喜びのいのちがあるからです。私たちはみな、そのように狭い門を通った人びと。今からも小さな道を歩き続けたいと願っているひとりひとり。まずはこのことを喜びたいと思うのです。
【牧師を吟味せよ】
ところが、どの道がイエスと共に歩く道なのかは、それほど明らかではありません。より多くの犠牲を強いる厳しい道が正しい道かというと、そうとも限りません。カルトを見ればよくわかります。多くの人びとが、財産や時間をしぼりとられ、人生を破壊されています。それが、イエスに従う道だと信じ込んでいるのです。 ですから主イエスは「偽預言者たちに用心しなさい。」(15a)と戒めます。ここでいう「預言者たち」は、旧約聖書の預言者たちのことではありません。教会で神の言葉を伝え、信仰の指導をしている人びと。「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼(おおかみ)です。」(15b)。ともあります。この狼は教会の偽の指導者。ですから主イエスは「教会の指導者の言うことを鵜呑みにしてはならない。牧師の言うことが正しいとは限らない」と、おっしゃるのです。 もちろん、単なる好き嫌いや、自分の考えに合うかどうかで批判するのは違うでしょう。けれども、聖書に、また教会が語り継いできた伝統に照らし合わせて、牧師が本当に神の言葉を語っているかを、判断するのです。
【そして自分を】
ただ、このことは、牧師の言動を疑いの目をもって監視せよ、ということではありません。それ以上のことです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(23)と主イエス。これは牧師たちだけではなく、すべての信仰者、すなわち私たち自身に言われていること。主イエスの望みは、私たちの心が、ご自分と共にあること。世界の痛みと共にあること。だから、「しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』(23)と私たちを招かれるのです。脅かすのではなく、愛をこめて、愛を求めるのです。
【良い実の主】
ですから、私たちは指導者を、そして私たち自身を吟味します。「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」(17)が、その見分け方です。「良い実」とは「天におられるわたしの父のみこころを行う」(21)こと。けれども、それは行いそのものが問題になっているのではありません。いくら「その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』」 (22)と訴えても、そこにイエスのいのち、新しいいのち、愛のいのちがなければ、イエスと共に、狭い門、小さな道を歩んでいるとは言えない。「だから、あなたがたの心がわたしの心と共にあるように。あなたの行いに心が伴っているように。わたしがそうしてあげよう。それをさまたげる恐れを、傷を、歪みをわたしにゆだねなさい。」と主イエスは今も、語っておられます。
【みこころを】
父のみこころとは何か?私たちは5章からの「山上の説教」を通して、それを聴き続けてきました。それは「人に見せるために人前で善行を」(6:1)する生き方ではなく、だれも見ていなくても、思わず愛があふれだすいのち。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと」(6:31)思いわずらう生活ではなく、今、このときを神と共に、仲間と共に突き抜けた喜びに踊るいのち。「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」(5:43)ではなく、自分を憎んでいる者との和解を願って止まないいのち。そんないのちはすでに私たちのうちに燃えています。
