2026年9月13日の説教要旨

2026年9月13日
 第二主日礼拝
説教「土台の主」
マタイの福音書7章24-29節

いよいよ「山上の説教」の最終回となりました。「山上の説教」を聴き始めたのが、去年の8月3日ですから、5章6章7章の三つの章を、一年以上かかって聴いたことになります。聴くうちに私たちのうちにキリストのいのちがみなぎったことを祈るばかりです。今日の箇所で主イエスは一つの譬えで「山上の説教」を締めくくられました。

【家と土台の譬え】

この譬えはとてもわかりやすい。子どもの聖書神芝居の定番です。岩と砂はしっかりした土台ともろい土台を表しています。目に見えない土台の部分をどれだけしっかりしたものとすることができるか、それがその家の本当の価値を決めます。また、岩の上に家を建てるのは、砂の上に建てるよりもずっと大変です。時間をかけ、苦労して土台を築くか、それとも安易な楽な道を選ぶか、主イエスが問うているのはそれです。

【嵐と戦う家】

家を建てる譬えが語っているのは、私たちの人生、私たちの生き方。自分の人生の土台を何に置き、どう生きるかが問われています。

「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(24)とあります。主イエスのことばを聞いて行うことが土台です 。そう聞くと、私たちはなにかつまらなく感じてしまうかもしれません。「なんだ。結局、善いことに励みなさい。悪いことはしないように。そうしたら安全無事に人生を過ごすことができる。家が、つまり人生が転覆するようなことはない、と。わかりきったことだ」と、そんなふうに思って。

けれども主イエスは「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。」(25) とおっしゃる。雨や嵐が私たちの人生を襲うのです。安全無事どころではありません。けれども、岩の上に立った家は、嵐と戦うのです。窓ガラスが破れたり、屋根が壊れたり、そんなこともあるでしょう。けれども、傷だらけになっても、その家は、住む人を、あるいは助けを求める人びとを守ることができるのです。

【あなたの人生の土台】

こうしてずっと「山上の説教」を聴き続けてきたみなさんには、この土台が何か。明らかでしょう。それは、すでに私たちに与えられています。父なる神があたえてくださった、新しいいのち、主イエスのいのち、愛のいのち。主イエスの十字架と復活によって与えられ、受け取ったこのいのちです。

このいのちがもたらす生き方、主イエスのことばを聞いて行う生き方は、「山上の説教」の全体から、何度も聴いてきたとおりです。

「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」(5:22)は、兄弟にとどまらないで、敵との和解さえも願って止まない生き方が、すでに私たちのうちに始まっていることを。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(5:29) は、自分の姉妹を見るように異性を見て、いつくしむ、そんな愛が私たちのうちにすでに始まり、ますますあふれることを。

だから私たちの人生の土台はすでに堅い岩の上に据えられています。土台を築く工事は困難でしたが、主イエスが十字架と復活によって成し遂げてくださいました。そうは言われてもピンとこない私たちのために、父なる神さまは「子よ」と呼びかけ、抱きしめて、時間をかけて私たちを育ててくださっています。

【倒れることがないように】

砂の上の家は「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(27)は脅かしではありません。むしろ、岩の上にすでに建っている家が、その土台を、砂に置き換えるなど、ありえないことです。そんなありえないことを錯覚することがないように。今日も、主イエスは、私たちの土台はもう据えられていて、ゆるぐことがないことを宣言してくださいました。私たちは、仲間といっしょに確かに聴かせていただきました。

目次