| 2026年7月12日 第二主日礼拝 説教「神の国と神の義の主」 マタイの福音書6章25-34節 |
主イエスは私たちを解き放ちます。今日もその招きを聴き、招きに応じます。自由へ。
【心配しないという冒険】
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(34) は有名。けれども、心配の多い私たちにとって「心配するな」ととても無理な冒険のように思えます。どうしたらそんな危険を冒すことができるのでしょうか。
この箇所には二つの生き方があります。一つは「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりする」(25)生き方。この生き方は前回聴いた通り、自分の能力、持ち物、がんばりにたよる生き方です。もう一つの生き方は、神さまを見つめ、神さまにたよる生き方。主イエスはそんな生き方へと私たちを招きます。
【父ゆえに】
私たちが神さまを信頼することができるのは、神さまが父であるからです。神さまはお造りになった世界のすべてを愛しています。野の花を装わせ、空の鳥を養います。けれども、私たちと花や鳥の間には大きなちがいがあります。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(26)に「あなたがたの父」とあるのがそれです。私たちは神の子です。神に似せて造られた愛し合うことができる存在。だから愛のまなざしで神をみることができます。神の胸に抱かれていることを知っているのです。神さまの胸に抱かれていることは、実は危険を冒すことではありません。最も安全なことなのです。
【子ゆえに】
私たちは、が父の胸に抱かれている子。そのことを知ることができたのはひとり子である主イエスによります。それがわからないで、たがいに傷つけ合う私たちを放っておくことができないで、主イエスはこの世界に来てくださり、十字架に架かって、復活してくださいました。キリスト教会は、キリストの三職を教えて来ました。キリストは祭司として、私たちの罪のためにとりなしてくださいました。ご自身を献げものとして。また、キリストは預言者として、私たちに父の愛を教えてくださいました。言葉だけではなくご自分を与えることによって。そして、キリストは王として私たちを罪と死の力の支配から解き放ってくださいました。十字架で悪の力を滅ぼすことによって。
【聖霊ゆえに】
父なる神を見たこともなく、主イエスの十字架に立ち会ったこともない私たちが、神さまを見つめ、神さまにたよることができるのは聖霊によります。聖霊なる神が、自分の内側を見つめ、自分の足元に目を落としてはあがく私たちの顔を持ち上げ。目をあげさせるのです。愛ゆえに。私たちが神さまから目を離すことを見過ごすことができない愛ゆえに。【神の国と神の義を】
神様を見つめ、神さまにたよる生き方、主イエスはそこへ、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(33)と招かれました。「神の国」とは、神の支配、神の愛の支配。私たちも、そんな神の愛を注がれ、満たされ、溢れて、注ぎ出して愛します。そんな毎日がすでに始まっていて、ますます愛へと成長し続けています。「神の義」とは、神との正しい関係、正対した健やかな関係です。
神さまと正対し、神さまを見つめ、神さまにたよる私たちに、「明日のことまで心配しなくてよい」とのみ言葉が実現しています。もちろん、日々新たな心配が起こります。心配しないことは不可能です。けれども、私たちは神さまの胸の中で心配しているのです。私たちの心配は、どうなってしまうかわからないような心配ではありません。どうなったとしても、神さまの胸の中で、神さまから注がれるいのちを生きることが大前提の、その上での、心配です。つまり神の守りと祝福というゴールがはっきりしているのです。あとは、では神さまはどのようにこの心配を切り抜けさせてくださるかを、心待ちにするのです。「私たちの父」である神さまが、父としての最善を与えてくださるからです。そんな子であり私たちおたがいを、今朝も喜び合います。
