| 2026年7月19日 第三主日礼拝 説教「見えるようにする主」 マタイの福音書7章1-6節 |
主イエスの山上の説教は続きます。私たちの目を開き、心を開き、いのちに満たすために。今朝も満たされましょう。
【さばくな?】
今日の箇所、「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(4-5) は、多くの人が誤解しているところかもしれません。私も長い間、わかっていなかったと思います。私はここを「自分のことをたなに上げて人をさばくな」という意味だと思っていました。特に「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」(2)ともありますから、自分が他の人を厳しくさばいていると、自分も神さまから厳しくさばかれてしまうのではないか。だったら、他の人を厳しくさばかないように手ごころを加えるなら、神さまも自分のさばきに手ごころを加えてくださるのではないか、と、なんとなくそんなふうに思っていたのです。けれども、そうなると、まるで主イエスが父なる神さまと上手に取り引きすることを教えているようなことになってしまいます。
【目にある梁】
けれども神さまのさばきは、取り引きできるようなものではありません。私たちの罪、私たちの愛に欠けた思い、愛に欠けた言葉、愛に欠けた行いは。神さまにとってそのままにしておくことができません。ましてや、私たちが他の人に手ごころを加えてやさしくしたからといって、手ごころを加えることができるようなものではありません。罪は、私たちの深いところの歪みや傷に由来し、私たちとこの世界に愛の破れをもたらしており、その影響はどんどん広がっていく、そんな病です。だから主イエスは、人となり、十字架で私たちの罪の原因と罪そのものと罪の結果を負ってくださり、復活のいのちを与えてくださいました。私たちを罪から解き放って自由にするために。
「自分の目にある梁(建物を支える太い水平な部材)」とは罪。この罪に目をふさがれているから、私たちは他の人をさばこうとします。神さまの心を痛め、仲間との関係を裂いてしまう自分を見ることができません。そして、ささいなことで仲間をさばき、非難してしまうのです。
【梁を取り除くお方】
主イエスは「自分の目から梁を取り除きなさい」とおっしゃいます。しかし問題は、私たちには自分で自分の罪を取り除くことができないことにあります。けれどもここによい知らせが、福音があります。私たちにできないからこそ主イエスが来てくださったのです。罪ある私たちへの神のさばきを受け止めるために。そのために十字架にいのちを捨てるために。そして私たちに「生きよ。新しいいのち、愛のいのちを生きよ」とおっしゃり、その通りにいのちを与えてくださるために。
【たがいの目からちりを】
罪という梁が取り除かれた私たちの目に、まず見えてくるのは主イエスの十字架です。私たちのために何も惜しむことをなさらなかった神さまの愛の大きさが見えます。喜びがあふれます。そんな私たちはもはや、仲間のあら探しをしようとはしません。自分も相手も、十字架によって、神との和解、たがいとの和解に入れられていることを喜びます。相手に欠点があるなら、それを補い、支え合おうとし、自分の欠点もまた、助けてもらう。そんな共に生きる生活を喜ぶのです。喜んでいるのです。
【豚に真珠】
「真珠を豚の前に投げてはいけません。」は、豚に真珠ということわざの元になったところ。真珠は十字架と復活による救いの恵みです。その恵みを与えてくださった主イエスでもあります。豚は、主イエスとその恵みを受け入れない者のこと。だからと言って、信じない人には福音を伝えるな、と言うのではありません。これは、私たちが主イエスを軽んじることがないように、という励ましです。また、今は目に梁があって、主イエスを見ることができない人びとも、いつかは主イエスを見ることができる、私たちと共に喜び、共に新しいいのちを生きることができるように、という招きでもあります。
