| 2026年8月2日 第一主日礼拝 説教「与える主」 マタイの福音書7章7-11節 |
今日もまた有名な、そして誤解されやすいところ。けれどもここには、主イエスの慰めが溢れています。聴き入りましょう。
【おめでたい教え?】
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。」(7ab)と言われても、私たちは現実がそうはいかないことを知っています。がんばって勉強しても希望の学校や就職ができるとは限りません。探してもみつからないこともある。いや、求めるものが得られないどころか、求めていない、そんなことはぜったいいやだと思っている事故や災害に苦しむことがあるのが人生です。そんな私たちには今日の箇所はおめでたい気休めのように聞こえてしまうことがあるのです。
「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(7c)も、教会の門をたたくなら、その門は必ず開かれ、信仰を得ることができる、と語られる箇所。けれども、実際には教会を訪れた人の全員が信仰をもつわけではありません。とても残念なことですが。では、これもまたむなしい気休めなのでしょうか。
【与える主】
しかし今日の聖書をよく読むと「与えられます」「開かれます」と、受動態、受け身で書かれていることに気づかされます。つまり、与えるお方がおられ、その方が私たちに与えてくださる。開いてくださるお方がいて、その方が私たちに開いてくださる。そのお方とは神。いつも申し上げているように主語は神さまです。聖書の主語は神さま。世界の主語も、私たちの人生も主語は神さま。その神に目を向けるように、とこの箇所も語っています。
【天におられるあなたがたの父】
神とはいかなるお方なのか?主イエスは続けます。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。」(9-10)。私たちでさえ、子どもにはできるだけよいものを与える。そうであるならば「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(11)。主イエスはここで「神はあなたがたの父であるのだ。天の、全能の、すべてのものを造られた神が、あなたがたの父なのだ。この父があなたがたを愛し、あなたがたに良いものを、もっとも良いものを、これ以上良いものはないものを与えてくださるのだ、与えてくださっているのだ」とおっしゃるのです。
【イエス・キリストの父なる神】
そして、天の父なる神が与えてくださった良いもののうちで、もっとも良いものは、間違いなくイエス・キリストです。神を愛せない、仲間を愛せない、世界を愛せない、そして自分も愛せない私たちをあわれんで、惜しんで、父なる神は子なる神をこの世に送り、十字架に架けてしまわれました。断腸の思いで。それでも私たちがいのちを生きるために。天の父なる神は、イエス・キリストの父なる神。だから私たちは、神を父と呼ぶことができるのです。
【天の父なる神の子として】
子は父の心を知ります。心を知って父と同じように生きようとします。かつて私たちは自分が欲しいものを求め、探し、門をたたいていました。そしてそれが得られないと、聖書の言葉などは気休めでそのまま信じるものではない、などと思いました。そんな中で、せいぜいかなえられそうな範囲で願い、そこそこに守られればそれでよい、と決め込んでいたかもしれません。けれども神さまの良いものは、広大無辺です。そして神さまは、神との愛の破れ、人との愛の破れ、世界との愛の破れをつくろい、神の国の完成のために私たちを用いたいと願われています。世界のすべての痛みの回復、それが神さまが与えてくださる良いもの。「この良いものを求めなさい、探しなさい、たたきなさい。そしてわたしといっしょにこの良いものの実現のためにいっしょに苦労してはくれないか。あなたの力を貸してくれないか」と。私たちの胸はもういっぱいになります。「はい、どうかあなたの良いもので地が満ちることができるように。どうぞお心のままに私たちをお用いください」と答えるのです。
