2026年8月9日の説教要旨

2026年8月9日 第二主日礼拝
説教「同じようにさせる主」
マタイの福音書7章12節

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」(12a)は、「黄金律(ゴールデン・ルール)」と呼ばれるところ。聖書を代表する教え、ともされているところです。信仰を持っていない人びとにもそう認識されているようです。だからこそ「黄金律」と呼ばれているとも言えます。「人からよくしてもらいたいと思うなら、人にもそうしてあげなさい。そうしたら同じようにしてもらえる」と。これだと信仰とは関係ない処世訓です。だから受け入れられます。実際、似たような処世訓は世界中に見られます。 【真の黄金律】 もちろん主イエスが処世訓を教えたわけはありません。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」の「ですから」は、山上の説教のここまでの部分の全体を受けての「ですから」。つまり、主イエスの十字架と復活によって与えられた新しい生き方の結果としての「ですから」。ここに真の意味での「黄金律」があります。もうすでに私たちには、主イエスのいのちが与えられています。このいのちは私たちを押し出します。人にしてもらいたいことを、進んで、心を尽くして、したいと思う生き方。愛を注ぎ出さずにはいられない生き方、そんな生き方を生き始めているのです。「同じように人にしなさい。」と命令のかたちで書かれているのも、もうすでに始まった愛の生活をますます楽しむように、という誘いなのです。 【愛を妨げるもの】 熊本でまた地震がありました。京都教区も、以前のように、すぐに現地に向かうといったことが難しくなってきましたが、さっそく支援金を送りました。こういうときには「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」を思います。そのようにありたいと。 けれども、私たちが当事者となった場合によく経験するのは、自分が何かで困っているとき、悲しんでいるとき、あの人がああしてくれたら、この人にこうして欲しいと思う。ところがまわりの人に自分の願いが通じない、自分の期待通りに人が動いてくれない、と不満に思う。そうして、自分の苦しみは、まわりの人が助けてくれないからだと恨み、苦しみ・嘆き・悲しみがより大きくなってしまうのです。 【驚くべき愛】 主イエスはそんな私たちに、自分が助けてもらったら、して欲しいことをしてもらったら、自分もそのようにしなさい、とは言いません。「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は、人がしてくれるかどうかとは、関係ないのです。むしろ、人が自分の願うこと、して欲しいことをしてくれない、助けてくれない、そういう現実の中で、そこでなお、自分がして欲しいことを人にしていく、人からは与えられなかった助け、慰め、励ましを自分は人に与えていく、そういうことを主イエスは私たちに求められる、いや、あなたがたはそのように生きている、そんないのちがもう始まっている、それを思い出せ、と励ましてくださっているのです。そんな驚くべき愛を。 十年前の熊本地震のとき、自ら被災者である牧師たちも加わり九州キリスト災害支援センター(九キリ災)が立ち上がりました。「キリストさん」と呼ばれる彼らは、「全キ災」へと展開し、能登でも活躍しています。自らが愛の起点として。 【さらに驚くべき愛】 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」は、まさに主イエスが私たちのためにしてくださったこと。この世の救いのために来てくださった主イエスを、世は敬わず、従わず、十字架の死へとおいやりました。私たちもまた、しばしば主イエスを忘れ、主イエスに背を向け、十字架などなかったかのように生きてしまいます。けれども、いえ、だからこそ、主イエスは私たちを愛し、私たちの罪の原因と罪そのものと罪の結果をすべて負ってくださいました。十字架で。私たちが「してもらいたい」と思わなかった「してもらえる」とも思わなかった愛を注いでくださいました。だから私たちは天の父なる神の子とされました。父と子の愛を聖霊によって、絶えず注がれている者に。今日もなお。

目次